「子どもたちとの対話」から学ぶ・・・・・ 〔掲示板〕から移動 1231

【Q&A.ひとりあること(2)】
『 私たちが造られ、寄せ集められ、組み立てられているとき、どうして理解がありうるでしょうか。そしてそのことからの自由があるとき、逃避でないひとりあることがあります。見方を変えれば、ひとりあることをもたらすのは、これらのことすべての理解であり、ひとりあることと共にあなたは生に直接出会うのです。

私たちが意見、信念の集まりであるなら、私たちが単に組み立てられているに過ぎないなら、私たちは統合された存在であると私たちは思うのです。あるいはこれらすべての荷を負って、統合を求めようとします。

確かに、単に表面的なレベルではなくて完全に、まさに一貫して統合があり得ますが、それは理解を通して、絶え間なく人に降り注いでいるすべての影響―信念、記憶、性癖など―からの自由があるときだけです。

それらを単に脇に投げ去ることはできません。そのとき、これらを理解し始めるので、矛盾でない、集合の反対や個人でないひとりあることがあります。

何かを理解したいとき、あなたはひとりあるのではないでしょうか。その瞬間完全に統合されていませんか。あなたの注意は完全に注がれていないでしょうか。そして引退を通して、何かの理解があり得るでしょうか。抵抗を通して何かの理解があり得るでしょうか。何かを放棄するとき、それは理解をもたらすでしょうか。

確かに、理解は抵抗を通してではなく、引退を通してではなく、放棄を通してではなく生じます。問題の意義全体を理解するときのみ、そのとき問題は消えます。それを放棄する必要はありません。あなたは富を、特定の明白な貪欲を放棄する必要はありません。』(K)


私の学習経過:

『 私たちが造られ、寄せ集められ、組み立てられるとき、どうして理解があるか。見方を変えれば、ひとりあることと共にあなたは生に直接出会う。

私たちが意見、信念の集まりに過ぎないなら、これらすべての荷を負って、統合を求めようとする。

表面的でなく完全に統合があり得るのは、理解を通して、絶え間なく人に降り注ぐすべての影響―信念、記憶、性癖―からの自由があるときだけ。

そのとき理解し始めるので、矛盾、集合の反対、個人でないひとりあることがある。

何かを理解したいとき、あなたはひとりあるのではないか。問題の意義全体を理解するときのみ、問題は消えます。』

私たちは、他者の意見や過去の信念に従って、現在の事実を見るようですが、動いて変化している現在の中で生きている事実は、固定化されて死んだ目には、歪められた姿としか捉えられないのかもしれない。