「子どもたちとの対話」から学ぶ・・・・・ 〔掲示板〕1236

【Q&A.観念・信念とは(3)】
『 心は自己の座席です。そしてそれが自己認識の問題にいつもより深く入っていくことが重要である理由です―「私は愛さなければならない」とか「愛は人々を結び付ける」とか「観念は分離する」と単に言うに過ぎないのではなく。

それは単なる聞いたことの反復で、したがってまったく無益であるでしょう。言葉は複雑にします。しかし、自分の思考のやり方、私たちの欲望とその追求と野心のやり方の意義全体を理解できるなら、そのとき愛であるものを持つ、あるいは理解する可能性があります。

しかしそれは自己の並外れた理解を要します。自己放棄があるとき、自己忘却があるとき―意図的にでなく、自発的にです、その自己忘却、自己否定、それは一連の練習、鍛錬の結果ではありません、それらは限定するだけです―そのとき愛の可能性があります。

その自己否定は、自己の全過程が意識的、無意識的に、起きている時間にも夢を見ている時間にも、理解されたときに生じます。そのとき、心の全体の過程が、それが関係の中で、あらゆるできごとの中で、自分の持つあらゆる挑戦に対するあらゆる応答の中で実際に起こっているときに理解されます。

それを理解することの中に、したがって心がそれ自身の自己を屹立させ、自己限定する過程から心を解放することの中に、愛の可能性があります。愛は感傷ではありません、ロマンチックな気分ではありません、何かへの依存ではありません。

そしてその状態は、理解する、あるいはその中にあることは極度に骨が折れ困難です。なぜなら、私たちの心は常に干渉し、限定し、その働きを侵害しているからです。それゆえ、心とそのやり方をまず理解することが重要です。

さもなければ、私たちは幻想に捕らえられるでしょう。ほとんど意味のない言葉と感情に捕らえられるでしょう。そして、私たちの大抵にとっては、観念は単に隠れ家として、逃避、信念となった観念として作用するので、当然それらは完全な生、完全な行為、正しい思考を妨げます。

正しく考えること、自由に聡明に生きることが可能なのは、いつもより深く広い自己認識があるときだけです。』(K)


私の学習経過:

『 心は自己の座席・・自己認識により深く入る重要な理由。

自分の思考、欲望、その追求と野心の意義全体を理解できるなら、愛、理解の可能性。

自己の並外れた理解を要す。自己放棄、自己忘却あるとき、自発的に―愛の可能性。

理解は極度に困難。心は常に干渉、限定、働きを侵害。心の理解が重要。

私たちの大抵には、観念は隠れ家、逃避、信念として作用・・完全な生、行為、正しい思考を妨げる。

正しく考え、自由に聡明に生きる可能性は、いつもより深く広い自己認識があるときだけ。』

自分の心の動き、欲望の理解―過去の知識・信念・慣習にとらわれることなく、現在の事実をありのままに見て理解する―「自己認識」は、いまの教育・社会の知識・情報・欲望による競争社会では困難だが、まずそのことを事実として見ること・理解することが求められている。