「子どもたちとの対話」から学ぶ・・・・・ 〔掲示板〕1239

【Q&A.なぜ私たちは記憶の中に生きるのか(3)】
『 それゆえ、記憶は自己です。記憶は言葉です。感覚を、心理的のみならず身体的な感覚をも表象する言葉です。そしてそれが私たちがしがみつくものです。

私たちがしがみつくのは経験ではなく感覚です。なぜなら経験の瞬間には経験者も経験もないからです―経験することだけがあります。私たちが記憶にしがみつくのは経験していないときです。非常に多くの人がそうします。特に歳をとるにつれて。

あなた自身を見守ってください、するとわかるでしょう。私たちは過去あるいは未来の中に生き、現在を単に過去から未来への通路として使用するに過ぎません。したがって現在は意義を持ちません。すべての政治家はこれに耽ります。すべての観念論者、すべての理想家―彼らは常に未来、あるいは過去を見ます。

それゆえ、記憶の意義全体を理解するなら、記憶を捨てるとか、破壊するとか、それらから自由であろうとするのではなく、心がいかに記憶に愛着し、それによって「私」を強化するかを理解します。「私」は結局感覚です。感覚の束、記憶の束です。それは既知のものです。そして既知のものから、私たちは未知のものを理解しようと望みます。しかし既知のものは未知のものに対する障害であるに違いありません。

なぜなら、実在を理解するためには、心の新しさ、新鮮さがなければならないからです―既知のものの重荷ではなく。神、あるいは実在、あるいはそういったもの、は想像することができません、記述することができません、言葉にすることができません。

もしそれをするなら、言葉にしたものは実在ではありません。それは単に記憶の感覚、条件に対する反応に過ぎません。それゆえ、それは実在ではありません。したがって、永遠のもの、時間のないものを理解する気があるなら、記憶としての心は終わっている必要があります。

心はもはや既知のものにしがみついていないに違いなく、したがってそれは未知のものを受け取ることがきっとできるでしょう。心が記憶を、既知のものを、過去のものを背負っているなら、未知のものを受け取ることはできません。

したがって、心はまったく静かである必要があります―それは非常に困難です。なぜなら心は常に投影し、常にさまよい、常につくり出し育んでいるからです。そして記憶に対する関係の中で理解されなければならないのはこの過程なのです。

そのとき心理的と物理的記憶の間の区別は明らかで単純です。それゆえ、記憶を理解することの中で、人は考える過程を理解します。それが、結局、自己認識です。心の限界を超えるためには、何かでありたい、達成したい、得たいという欲望からの自由がなければなりません。』(K)


私の学習経過:

『 記憶は自己・言葉・・私たちがしがみつく―経験していないとき。経験の瞬間には経験者も経験もない。

私たちは過去・未来に生き、現在を過去から未来への通路として使用するに過ぎない。現在は意義を持たない。すべての政治家、理想家は常に未来、過去を見る。

記憶を捨て、破壊、自由ではなく、心がいかに記憶に愛着、「私」を強化するかを理解。「私」は感覚・記憶・既知から未知を理解しようと望む。既知は未知に対する障害。

実在の理解には、心の新しさ、新鮮さがなければならない―既知のものの重荷でなく。

言葉は記憶の感覚、条件に対する反応に過ぎず、実在ではない。永遠の、時間のないものを理解するなら、記憶としての心は終わる必要がある。

心が記憶、既知、過去を背負っているなら、未知のものを受け取ることはできない。

心は静かである必要―非常に困難。心は常に投影し、さまよい、つくり出し育んでいるから。

記憶を理解する中で、考える過程を理解―自己認識。心の限界を超えるには、何かでありたい、達成したい、得たいという欲望からの自由がなければならない。』

人間、人類の歴史は・・知識・過去を積み重ねて重くなった親や指導者に教えられ、育てられて、子どもが持っている「現在を見る目」が次第に曇らされて「過去の記憶・知識から現在の事実を通り越した未来の目的に向けられてしまう」。

それがいまの現代の「目的・努力・達成・成功」で成り立っている教育・社会・政治・国際・文明・文化を支えている「競争社会の対立・争い・暴力・破壊・戦争」の正体なのか・・・。