いままでの記録 [4]


:::2015・7 ブログ新設定・移動  2015/7/20

[人間とは・・心とは・・そして社会は・・・]


ブログを新しく設定・移動しました   2015/7/20(月) 午後 5:00

[人間とは・・心とは・・そして社会は・・・]

ブログを始めて2年を超え、掲示板で使っているIDにそろえることにしたので、ここに新しくブログを設定・移動して、いままでの投稿記事はまとめて記録することにした。 

いままでにも書いてきたが、私は子どものころから親や教師や大人の社会に疑問を感じて育ってきて、それがいまの政治・経済・文化から教育・医療・スポーツ・宗教にまでおよぶ・・暴力・腐敗・破壊・競争社会を新しい視点で見て、「信じるのでなく、全てを疑って見る」という私の生きる原点になっている。

社会の出来事、政治・経済・教育・科学技術・文化・宗教は、私たち一人一人の内部の心―不安・欲望・支配がつくりだしたものです。そのことの真の理解なしには、子育て・教育から社会的政治的な活動も努力も、この社会の貧困・差別・格差・争い・悲惨・破壊を根本的に解決することはできないのではないだろうか。


***
掲示板では、新しいものの見方を学んでいるクリシュナムルティ(K)のことばを紹介しながら書いている。

『 生とはどういうものでしょう。生はとてつもないものでしょう。鳥、花、繁った木、天、星、河とその中の魚、このすべてが生なのです。生は貧しいものと豊かなものです。生は集団と民族と国家の間の絶え間ない闘いです。生は宗教と呼ばれているものです。そしてまた心の中の微妙で隠れたもの――嫉妬、野心、情熱、恐怖、充足、不安です。このすべてともっと多くのものが生なのです。

しかし、たいがい私たちは、そのほんの小さな片隅を理解する準備をするだけです。私たちは試験に受かり、仕事を得て、結婚し、子供が生まれ、それからますます機械のようになってゆくのです。生を恐れ、怖がり、おびえたままなのです。
それから、仕事や台所に縛られて、しだいにそこで衰えてゆくでしょう。この問題を自分自身に問うたことはないですか。問うべきではないですか。

知恵とは何か、知っていますか。確かに知恵とは、何が本当で何が真実なのかを自分自身で発見しはじめるように、恐怖なく公式なく、自由に考える能力です。しかし、怯えているなら、決して知恵は持てないでしょう。精神的だろうと現世的だろうと、どんな形の野心も不安と恐怖を生み出します。そのために野心は、単純明快、率直で、それゆえに知恵のある心をもたらす助けにはなりません。

若いうちに恐怖のない環境に生きることは、本当にとても重要でしょう。私たちのほとんどは、年をとるなかで怯えてゆきます。生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、死を恐れます。私たちのほとんどは何らかの形の恐怖を抱えています。そして、恐怖のあるところに知恵はありません。

私たちみんなが若いうちに、恐怖がなくむしろ自由の雰囲気のある環境にいることはできないのでしょうか。それは、ただ好きなことをするだけではなく、生きることの過程全体を理解するための自由です。

本当は生はとても美しく、私たちがこのようにしてしまった醜いものではないのです。そして、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものに対して―組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出す時にだけ、堪能できるでしょう。

世の中は、いつも権力を求めている政治家たちに指導されています。それは弁護士と警察官と軍人の世界であり、みんなが地位をほしがって、みんなが地位を得るために、お互いに闘っている野心的な男女の世界です。そして、信者を連れたいわゆる聖人や宗教の導師がいます。彼らもまた、ここや来世で地位や権力をほしがります。

自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんな滅んでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、知恵を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。、

何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず反逆している人たちだけです。真理や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。
そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすこの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。』(K)



沖縄と安保法制  社会問題 2015/8/30(日) 午後 2:08

沖縄の米軍基地の問題・・政治が数の論理で動いている、動かされている・・・ということと、だから、それは国民というひとくくりにされている私たちひとりひとりの意識の問題なのだろう。
東北大震災・津波原発放射能被害に見る政治や国民の見る目も、同情的な一面とその背後にある自己の安全意識とが、時間の経過とともに「自分と関係ない」方向に移っていくのが政治と国民の意識なのだろう。

そういう点で、安保法制に対する国民の意識は、ようやく「目覚め」の一歩を踏み出す気配が出てきたようですが、どうなんでしょう。マスコミ各社の調査では、「説明が足りない」とか言ってるが、そういうことでなく、この法案が日本ではいままで抑えていた戦争への危険性を意味することが、その国民に理解できるかどうかなのだ。説明ならば、政権は審議時間を使って、いままでのようにごまかす論理を続けることで、多数の数の論理で押し切ってしまうのか。
そういう意味で、いまは国民の意識が多少でも目覚めることにつながるのか、重要な時である。


:::

(日曜に想う)沖縄が問う、日本人の洞察力 特別編集委員星浩 朝日 2015年8月30日

 戦後70年のこの夏、沖縄について考えることが多かった。翁長雄志知事の話を聞いた。

 「東京などで講演すると、私たちが米軍普天間飛行場辺野古移設に反対しているから、『日米安保に反対なのか』と聞かれることが多い。はじめのうちは『そうではない』と説明していたのだが、最近は『あなたは自宅近くに米軍基地ができるとしたら、受け入れますか』と、逆に質問することにしている。たいていは『受け入れない』という答えだ。そこで私が『では、あなたは日米安保に反対なのですか』と聞くと、相手は黙ってしまう」

 多くの日本人と同じように、沖縄県民の大半は日米安保に反対しているわけではない。国土の0・6%にすぎない沖縄県在日米軍基地の74%が集中するという過重な負担に異議を唱えているのだ。それは、ごく常識的な主張ではないか――と翁長氏は訴える。

 沖縄の基地問題を考える時、「抑止力の維持」という現状の安全保障論とともに沖縄の歴史を踏まえなければならない。太平洋戦争の地上戦で県民の4人に1人が命を落としたという悲劇だけではない。7月、安全保障関連法案を審議していた衆院特別委員会の地方参考人質疑が那覇市内で開かれた。大田昌秀元知事の証言が耳に残る。

 「戦後、沖縄は日本から切り離されて米軍の軍政下に置かれた。27年間、沖縄は日本の憲法の適用が受けられなかった。憲法には人権などが細かく規定されているが、それが適用されない沖縄は他人の目的を達成するための手段として、もの扱いされて、人間扱いされてこなかったわけです」

     *

 永田町を見渡すと、沖縄の問題に真剣に向き合う政治家が少なくなったことに気づく。かつては橋本龍太郎小渕恵三梶山静六野中広務各氏らがいた。彼らの先輩格に山中貞則氏がいる。1970年から総理府総務長官、沖縄開発庁長官などを務め、沖縄の基地問題経済振興策に取り組んだ。

 鹿児島の選挙地盤を引き継いだ森山裕衆院議員によると、ある時、山中氏は支持者から「先生、沖縄に注ぐエネルギーの10分の1でもいいから、地元のことにも力を入れてください」と言われた。山中氏は「何を言うか!」と一喝。「沖縄の人たちが地上戦で踏ん張ったから、米軍は鹿児島に上陸できなかった。沖縄の人々が戦わなかったら、君らは海に沈んでいた。沖縄のために働くのは政治家の責任だ」と力説したという。この6月、自民党本部で開かれた若手勉強会では「沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていく」といった発言が続いた。山中氏の時代との「落差」は、あまりにも大きい。

     *

 最近、沖縄の人たちがよく口にする言葉に「イデオロギーよりアイデンティティー」がある。難しい発音だが、年配の人もすらすらと語る。主義主張の違いを乗り越え、沖縄県民としての一体感を持ちたいという意味だろう。保守系から共産党までが一致して「辺野古反対」を掲げ、翁長知事を誕生させた昨年の知事選ごろから合言葉のように使われている。

 政府は、8月10日から9月9日まで辺野古への移設作業を一時中断し、沖縄県との話し合いを進めている。「辺野古が唯一の選択肢」という菅義偉官房長官と「辺野古に新基地はつくれない」と主張する翁長知事との接点を見いだすのは容易ではないだろう。

 ただ、この協議は私たちに沖縄問題を立ち止まって考える時間と材料を与えてくれる。沖縄が歩んできた歴史と東南アジアや中国との懸け橋になり得る将来性という時間軸。日米安保に伴う基地負担を、日本全体で分け合うことはできないかという現実の課題。そして沖縄のアイデンティティーをどう受け止めるべきか。重いテーマをじっくりと洞察し、解決策を練っていく。その力を日本人は持つことができるのだろうか。「沖縄」が、そこを厳しく問うている。


:::::

(時事小言)米の戦争と集団的自衛権 紛争分析し、見極めよ 藤原帰一 朝日 2015年8月25日16時30分

 アメリカの始めた戦争に日本が巻き込まれるのではないか。これは、新安全保障法制に反対する議論のなかで繰り返し現れる論点の一つである。

 いうまでもなく新安保法制は集団的自衛権の限定的承認を目的としている。集団的自衛権とは同盟と不可分の概念であって、同盟国の安全が脅かされた場合、たとえその脅威が日本の安全を直接には脅かすものではないとしても、一定の条件の下で同盟国の軍事行動に協力を行うことになる。

 これまでアメリカ政府は日本防衛へのコミットを表明してきたが、アメリカの軍事支援要請に対する日本の協力は限定され、法的根拠も乏しかったため、日米両国の懸案となってきた。日本国憲法日米安保条約との間の緊張がその背景にある。

 同盟とは各国が軍事協力を行うことによって単独の防衛力よりも大きな防衛力を確保し、他の諸国による侵略を阻むことが目的であるとすれば、その同盟を安定させるためには集団的自衛権の承認は欠かせない。自国の防衛に協力しない同盟国のために自国の兵士の安全を危険にさらすことは考えにくいからである。

     *

 だが、仮にアメリカ政府が国外への軍事介入に積極的であり、国際関係に不安定を招く存在であるとすれば、集団的自衛権を認めることによって日本はアメリカとともに世界の安全を脅かす存在となってしまう。新安保法制が戦争への道を開く法案だという議論の前提には、戦争に積極的なアメリカが日本を巻き込むのではないかという懸念があるといっていい。

 さて、どうだろうか。私はオバマ政権が軍事介入に積極的であるとは考えない。アフガニスタンイラクへの介入のあとに誕生したオバマ政権は、ちょうどベトナム戦争後に生まれたカーター政権のように、軍事介入に慎重であった。介入したリビアからもいち早く撤兵し、シリアでは内戦拡大を前にしながら介入を渋り続けた。中国の軍事台頭に対してアジア基軸外交を打ち出しながら、尖閣諸島を巡って日中両国の対立が厳しくなると、中国の牽制(けんせい)よりも紛争拡大の防止を優先した。もちろん平和主義ではなく米軍の犠牲を恐れた結果であるが、現在のアメリカ政府が好戦的だとはとてもいえない。

 問題は、そのアメリカ政府の方針が今後も続くとは限らない点にある。ブッシュ大統領イラク介入という不必要な戦争によって独裁政権下とはいえテロの危険が少なかったイラクを破綻(はたん)国家とテロの温床に変えてしまった。オバマ大統領への不満が高まるなか、大統領選挙を翌年に抱えたいま、扇情的な発言を繰り返すドナルド・トランプを筆頭とする共和党の大統領候補が「強いアメリカ」の回復を競い合っている。仮にヒラリー・クリントン国務長官が次期大統領となったとしても、オバマ政権の不介入政策が維持される保証はない。

 アメリカが常に好戦的であり、世界各地に軍事介入を行う機会を模索しているという判断は事実に反する。だが同時に、世界最大の軍隊を擁するアメリカが軍事行動に慎重な姿勢を保つことは容易ではない。アメリカが過剰な軍事介入に走り、日本に協力を求める可能性があるのは事実だろう。

     *

 それではどうすべきか。私は、アメリカの戦争に巻き込まれるなという訴えをもとに集団的自衛権をすべて否定することには賛成できない。憲法9条を基軸とする日本の平和主義は、日本が再び侵略戦争を引き起こすことを防止するために貢献する一方、日本の安全に関わらない国際紛争に対しては孤立主義ともいうべき姿勢を生み出した。平和主義というかけ声の下で平和構築のために必要となる国際協力から日本が外れる結果を招くことがあってはならない。

 他方、集団的自衛権の名の下でアメリカの求める軍事協力に応じることにも強い懸念がある。アメリカはいつでも戦争を始めようとしているわけではないが、ベトナム戦争イラク戦争のように過去にいくつもの不要な戦争に走ってきた。アメリカの無謀な軍事介入に日本が協力すれば、平和構築どころか平和の破壊に加担することになってしまう。

 軍事力を全て否定する原則論も、アメリカの要請に常に従うという判断放棄も、答えにはならない。必要なのは、それぞれの国際紛争を自分の力で分析し、武力行使以外の手段が本当に存在しないのか、それを見極める判断力である。

 新安保法制を巡って国会で行われている議論を見るとき、日本政府にも、また野党にも、国際紛争を冷静に捉える力があるとは思われない。政局と結びついた国内消費用の議論ではない国際紛争の分析がいまほど必要な時はない。(国際政治学者)

:::

東京大学法学政治学研究科教授 藤原 帰一 朝日 2014/6/18

集団的自衛権を認めるか否か、その論争のなかで、さまざまな状況を想定した議論が行われている。朝鮮半島における南北両軍の戦闘とか、ホルムズ海峡における機雷封鎖とか生々しい設定が並べられるのだが、気になることがある。この議論をする人たちは、戦争の可能性がどこまであると考えているのだろう。

ひとつには、戦争を起こさないためにこそ集団的自衛権が必要だという議論がある。逆にいえば集団的自衛権を認めれば紛争の抑止を期待できるという意味になるのだろうが、さてどうだろう。日本が集団的自衛権を認めれば北朝鮮や中国は戦略を変えるだろうか。私には、両国とも日本が米軍と共に戦う可能性を最初から織り込んで戦略を立ててきたように思われる。この場合、公式に集団的自衛権を日本政府が認めても、相手の行動を変えることは期待できない。

もうひとつの議論は、戦争が起こりそうもないことは誰でもわかっている、だが可能性はわずかでも備える必要はあるというものだ。そう考える人たちは、「日本が関わる紛争」をごく狭い地域に限って考え、その外の地域で戦争が起こっても日本とは関係ないと判断しているのかも知れない。それでも、現代世界において戦争が起こる可能性はほんとうに少ないのだろうか。


私の意見は違う。いまの世界では戦争が生まれる可能性が高い、しかも地域が限られ戦闘の規模も限られた紛争がより大規模な軍事紛争に発展する可能性は、いくつかの地域で高まっている。それが私の分析である。

一般に軍事大国は互いに直接の戦闘を始めることについては慎重であることが多い。いったん戦争が起こった場合の代償が大きいためであるが、その結果として抑止戦略も核保有国の間では効果を上げやすい。冷戦時代も直接の米ソ戦争は起こらなかった。現在でもアメリカとロシア、あるいはアメリカと中国が直ちに戦闘を始める可能性は低い。

だが、大国相互ではなく、第三の地域で紛争が発生した場合、そこへの軍事介入については状況が違う。

自分の国を攻撃されるのならともかく、たとえ同盟国であっても、他の国が侵略されたからといって、その国を守るために軍事大国と戦争を始めるリスクは高い。ましてその国が同盟国でなければなおさらだ。たとえば、ロシア軍がウクライナとの国境を越えて進軍したとき、NATO北大西洋条約機構)諸国はウクライナ政府を支援してロシアと戦闘に入るだろうか。あるいは、ベトナム沖合で石油を掘削する中国がベトナム軍と戦闘に入ったとき、米国、ASEAN東南アジア諸国連合)諸国、あるいは日本やオーストラリアは軍隊を送ってベトナムを支援するだろうか。

いうまでもなく、ウクライナは(まだ)NATOの一員ではないし、ベトナムアメリカと同盟は結んでいない。もしNATOウクライナに介入する危険が乏しいのであれば、NATOの介入を恐れずにロシアが東ウクライナに進軍することが可能となる。また、米国やASEAN諸国がベトナムを支援する可能性が乏しければ、中国は他国を恐れずにベトナムと戦闘に入ることが可能となる。


では、ロシアや中国が武力行使を思いとどまればどうか。それでも危険はなくならない。このウクライナ、あるいはベトナムの事例で恐ろしいのは、西側諸国の支援が確保されていない場合でも、ウクライナ政府、あるいはベトナム政府が、ロシアないし中国に攻撃を加える可能性があることだ。既にウクライナでは新政権発足直後から東部地域への全面攻撃が続いている。ベトナムはまだ慎重な姿勢を崩していないが、1979年の戦争においてベトナム軍が越境した中国軍に壊滅的な打撃を与えたことは忘れてはならない。紛争現場に戦闘意欲の高い勢力が存在するとき、紛争のエスカレートを止めることは難しい。

紛争の背景に政府の権力の弱まりがあるときも戦争は避けにくい。コンゴ南スーダンのように政府が領土を統治する力を失った「破綻国家」はその例である。イラクでも、「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」が勢力を広げる背景に現マリキ政権の弱体性があることは確実だろう。この情勢を放置すれば、シリアからイラクにまたがる巨大な紛争地域が生まれてしまう。

ここに掲げたどの紛争も全面戦争には達していない。だが、戦争が遠い将来の可能性ではないことも明らかだ。紛争のエスカレートを食いとめるために可能な手段を考えること、それこそが現実的な戦争へのアプローチだと私は考える。

*コラム欄についての前書 http://pari.u-tokyo.ac.jp/column/index_column.html


社会の断面に見える 2015/9/2(水) 午前 11:14

オリンピックに限らず、マスコミの報道によって、スポーツはナショナリズムをあおって、選手や指導者も政治家までもが、ひとの上に立つ感覚を増殖させ、社会の底辺の人々に向ける目を鈍感にさせてしまうようだ。

:::

9月1日(火曜日) 往生際が悪すぎる利権の構図  【身辺雑記 大岡みなみ】

 佐野研二郎氏がデザインした東京五輪エンブレムの使用中止を、五輪組織委員会が決定した。当然の判断だろう。次から次に疑惑が噴出し、パクリや無断転用(盗用)だらけの制作姿勢がいくつも露見したのだから、もはやどうにもならなかった。

 新国立競技場と同じパターンで、むしろ遅すぎる判断だと思うけど、しかしいずれにせよ、佐野氏も東京五輪組織委員会にしても、見苦しさと往生際の悪さだけが際立つ。走り出したら止まらない利権行政の構図そのものだが、ダム建設も原発再稼働も沖縄の辺野古移設も、そして安保法案(戦争法案)もすべて同様だろう。

 嘘と詭弁とごまかしに満ちた東京五輪。新国立競技場の建設計画やエンブレムもごまかしだらけだが、何よりも「(原発事故の汚染水は)アンダーコントロールされている」などと世界中に大嘘を吹聴し五輪招致した安倍首相こそが、最低最悪の詐欺師ではないか。立憲主義を否定し憲法を蹂躙する安保関連法案(戦争法案)をめぐるデタラメ説明は、嘘やごまかしの最たるものだ。


8月30日(日曜日) 戦争法案反対は日本の常識だ
 安保関連法案(戦争法案)に反対する国会前の大規模集会と抗議デモ。あいにくの雨だったが、主催者発表12万人(警察発表3万3千人)の市民が、国会議事堂の正門前や周辺を埋め尽くした。これだけの市民が集まって、安保関連法案(戦争法案)の廃案と安倍首相退陣を訴えたのは画期的なことだ。入れ代り立ち代りの参加者も少なくないから、延べ人数ではもっと多いはず。延べ35万人との説もある。いずれにしても、3万人という数字は少なすぎてあり得ない。

 国会正門前の車道は、群衆が歩道からあふれ出たため、この日ついに開放された。弁護団の話では、戦争法案反対集会で正門前の車道が開放されたのは、今回が初めてだという。歩道に押し込められていた群衆が車道にまであふれ出たのは、2012年6月に首相官邸前で行われた原発再稼働反対デモ以来ではないだろうか。

 同様の抗議集会やデもは全国各地で行われた。憲法違反の戦争法案に反対し、立憲主義を否定する安倍首相の辞任を求めて声を上げるのは、もはやこの国の常識でありスタンダードだ。安倍政権は間違いなく民意に反している。

 「立憲主義の否定は許されない」「専守防衛に徹し平和主義を大切にする」。これは間違いなく圧倒的多数の国民の思いだ。安保関連法案(戦争法案)の政府説明はおかしいと感じ、疑問や反対の意思を示すのは自然な反応だ。社会常識と言っていい。この国の民主主義そのものが問われている。


8月27日(木曜日) 
 「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」と呼びかける鎌倉市図書館のツイートが、絶賛されて拡散を続けている。鎌倉市図書館の配慮あるあたたかいメッセージに、激しく同感・共感する。

 学校に行って命を落とすくらいなら、学校なんか行かなくていいと思う。「逃げちゃダメだ」なんてことはない。その方がいいと自分で判断したなら、むしろ逃げた方がいい。「逃げていいよ」と迎え入れるその場所が図書館とは、なんて素敵なメッセージだろう。素晴らしい居場所を提供してくれる鎌倉市図書館と司書さんたちに拍手。


政治を支えているもの  2015/9/18(金) 午後 4:52

政治は、この競争社会の権力支配構造をつくりだしている人々の意識なのだが、東京五輪の競技場建設問題や安全保障関連法案の国会審議を見ながら、ようやく人々は「なんかおかしい、へんだ」と感じ始めて、その意識にいままでとは違った小さな変化が見え始めたように思える。

民主主義ということばも独り歩きして、その意味するものを深く考えないで使っているようで、「他者に対する心づかい」という基本的な人間関係の理解がないまま、「多数」が権力や暴力につながっていることが、この国会の紛争にも見えてくるのです。

:::

天声人語)やむにやまれぬ民主主義  2015年9月18日05時00分

 「人々はだんだん賢くなってきている」と聞いても半信半疑だった。4年前、デジタル革命の先端を行くマサチューセッツ工科大メディアラボの所長になった伊藤穣一(じょういち)さんにインタビューした時のことだ

▼伊藤さんによれば、人々はネットでつながりを深め、質の高い議論を交わし始めている。その相互作用で独創的な新しいものが誕生する。これを「創発」という。民主主義にも応用できる。つながりが実際の行動に発展すれば新しい民主主義を生み、世の中が変わる、と

▼政治が迷走する日本でも生まれるのか。伊藤さんは予言するように言った。「国民がやむにやまれず立ち上がるような事態が発生する」。確かに、その半年ほど前の原発事故で人々は立ち上がりつつあった。今、安保法案に反対する動きが勢いを増す

▼カウンターデモクラシーという言葉がある。伝統的な代議制や政党政治に時に対抗し、時に補完する民主主義。それは選挙とは別の回路で多様な民意を反映させようとする。デモや集会が典型だ。伊藤さんの発想とも通じるところがある

▼おととい、憲法学者の長谷部恭男さんが都内のシンポジウムでカウンターデモクラシーに触れ、「新たな民主主義が生まれている」と指摘した。国会で安保法案は違憲と断じ、政権与党に衝撃を与えた早大教授は、国会前や各地の光景に希望を見る

▼古めかしい議事堂の中で無法がまかり通る。やむにやまれず立ち上がる人々は続くだろう。民意のもう一つの回路に向けて。



国会デモ、海外メディア注目 WSJ「学生たち、沈黙破った」  朝日 2015年9月18日

 安全保障関連法案の参院審議が紛糾する中、国会前などで学生らの抗議デモが夜を徹して続く。海外メディアは「平和憲法を様変わりさせ、第2次大戦以来初めて海外派兵を認める法案に反対して、学生たちが声を上げた」などと報じた。

 米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ、アジア版)は16日、国会前で抗議する学生らの写真を1面に掲載。「政治的な議論について数十年間沈黙してきた学生たちが、抗議運動の強力な部隊として再び現れた」と報じた。

 デモの先頭に立つ学生団体「SEALDs(シールズ)」を紹介。名前は「自由と民主主義のための学生緊急行動」の英語表記の頭文字を取ったものだが、民主主義を守る目的で英語の「盾(shields)」と同じ発音にしている、と説明した。米CNNはホームページで「私の人生で、全国に広がるこんな大きな運動を見たことがない」「『経済的徴兵制』が、より現実的になることを恐れる」などの学生らの声を紹介した。

 英紙ガーディアン(電子版)も同日、「戦争に反対する日本の新世代が安倍首相に立ち向かう」との見出しで記事を掲載。SEALDsを「日本で抗議行動をするのは、一定以上の年齢の人か、奇抜な人か、マルクス主義者だという概念に挑んでいる」と説明した。

 「祖母が福島にいる。原発事故が起きて、政治が自分の生活に直結すると実感した」(20歳大学生)など、参加している若者の声も紙面で紹介した。

 南ドイツ新聞は、17日付で「安倍首相は安保法案の導入により、それまで政治に無関心だった日本の学生たちを自分の反対勢力として動かしてしまった」と伝えた。

 昨年3月に学生らが立法院(国会)を占拠する「ひまわり学生運動」が起きた台湾では17日、大手紙がそろって安保法案をめぐる国会の様子や抗議デモについて報じた。聯合報は、日本外国特派員協会での「SEALDs」メンバーの奥田愛基さんの会見をもとに、彼らの運動が「ひまわり学生運動の啓発を受けている」と報道。台湾や「雨傘革命」と呼ばれる占拠デモが起きた香港の留学生らと意見交換した、と奥田さんが語ったことを伝えた。

 仏経済紙ロピニオンのアジア部長、クロード・ルブラン氏は朝日新聞の取材に対し「若者を中心とした安保法案への反対運動は、既成政党と距離を置いている点で欧米に広がった格差是正運動と共通項があり、台湾や香港、マレーシアなどで起きている動きとも無関係ではない」と分析した。「自民党政権を倒すほどの力はないかもしれないが、次の総選挙で自民党を退潮させる潜在力を持っている」とも話した。

 (ベルリン=玉川透、台北=鵜飼啓、ロンドン=渡辺志帆)



(社説)東京五輪 今こそ意義を考えよう  2015年9月13日05時00分

 東京五輪パラリンピックが5年後に迫っている。だが、何をめざし、どんな大会にするのか、いまだに見えてこない。

 基本理念と国民的論議を欠いたまま見切り発車していた大会のシンボルは、相次いで振り出しに戻った。主会場となる新国立競技場の建て替えと、大会エンブレムである。

 どちらも迷走した末、「このままでは国民の理解が得られない」として、公募をやり直すことになった。これを機に改めて大会の意義を考えたい。

 競技場については新しい計画が示された。工費と工期の圧縮を最優先したとされるが、具体的な基準として目を引くのは「日本らしさに配慮して施設整備を行い、木材の活用を図る」とあるぐらいだ。

 これでは、巨費を投じて、「安かろう、悪かろう」とならないか。後世の子どもたちやアスリートが夢を描ける拠点となるのか、疑わしくなる。

 二つのシンボルの見直しが象徴するのは、明確な責任の下に組織を統べて、基軸となる理念を練り上げ、世に訴える主体がいないという現実である。

 大会組織委員会文科省日本スポーツ振興センター、東京都。どの組織の誰に、何の権限と責任があるのか。今に至るもあいまいとしたままだ。

 そもそも、2016年大会の招致段階から、開催意義や理念を誰も打ち出せずにきた。

 組織委が中心となって、今からでも「なぜ五輪なのか」をわかりやすく示さなければならない。それなしに、この先も広く国民の理解は得られまい。

 「復興五輪」ならば、震災被災地と大会をつなぐ工夫が必要だろう。「成熟都市の五輪」をうたうのであれば、無駄を省きつつ、質的、精神的な豊かさを追求する新しい五輪の姿を描くという指針がありえる。

 そうした議論の中心となるのが政治家や官僚では、発想の幅が限られる。日本オリンピック委員会や各競技団体など、あらゆるスポーツ界の人々に積極的に関わってほしい。

 スポーツを通じて世界中の人々と交流してきたアスリートたちは、五輪やスポーツの持つ力の大きさを実体験としてもっている。彼らの言葉には、国民的議論を巻き起こせる潜在的な力があるはずだ。

 大会の理念を語ることは、どんな未来の社会を築くのかという問いでもある。後世に豊かな記憶と遺産を残せるよう、今こそ本来の原点に立ちもどり、「TOKYO 2020」の理念を定めたい。


「国を守る」とは 2015/9/28(月) 午前 10:52

安保法制について、政府の説明が足りないというアンケートの結果が問題になっていたが、説明の問題ではなく、「国を守る」などという言葉の意味するものが解っていないんではないか。自分を守る意識は、結局は他人を傷つけて、自分も傷を負うことになるのだが。

「声」の大学院生の
「抑止」というけれど、それは「いたちごっこの構図」・・武力に武力で対抗した結果は人類の歴史がすでに証明
・・・という言葉は本質をついている。

政治はどこを向いているのか・・それは国民というひとかたまりの人間集団がつくりだして虚構なのだろうか。オリンピックで騒いでいる陰には、いつもその足元に市井のひとびとの今日の生活の問題がある。


:::

安保法に感じる民主主義の崩壊  朝日(声) 2015年9月27日
 大学院生 若松郁(埼玉県 22)

 深く危惧していたが、現実に安全保障関連法が成立し、ここまで母国に失望、いや絶望するとは思わなかった。戦後70年にして民主主義と平和主義の崩壊を目の当たりにしている。

 「抑止」というけれど、それは中国などの軍事的脅威が高まったから、日本がそれに対抗しようという、いたちごっこの構図にしか映らない。武力に武力で対抗した結果は人類の歴史がすでに証明している。

 質ある審議と正当な手続き、世論の反映のない安保法案を、政府がいくら「丁寧に説明」しても欠陥が次々と見えるだけ。しかも、強行採決するとは先進国のすることか。

 今、この国にはギリシャよりも深刻な財政赤字をはじめ、震災復興や原発、頻発する自然災害、少子高齢化など、明日の日常生活に直結する問題が山積している。その上、東京五輪パラリンピックまで抱え込んでいる。最も問題にするべきなのはむしろ、国内に対してではないか。

 現政権を選択したのは我々国民だ。これから何を選択し、どう動くのか。私自身もどのように生きていくのか、深く問われている。

:::

(戦後70年)日本の誇るべき力 戦後日本を研究する米国の歴史家、ジョン・ダワーさん  朝日 2015年8月4日

 あの戦争が終わって70年、日本は立つべき場所を見失いかけているようにみえる。私たちは何を誇りにし、どのように過去を受け止めるべきなのか。国を愛するとは、どういうことなのか。名著「敗北を抱きしめて」で、敗戦直後の日本人の姿を活写した米国の歴史家の声に、耳をすませてみる。

 ――戦後70年を振り返り、日本が成したこと、評価できることは何だと考えますか。

 「以前、外務省の高官から『日本はソフトパワーを重視する』と聞かされたことがあります。日本車、和食、漫画やアニメ、ポップカルチャー。世界が賛美するものは確かに多い。しかし、例えばハローキティが外交上の力になるかといえば、違うでしょう。世界中が知っている日本の本当のソフトパワーは、現憲法下で反軍事的な政策を守り続けてきたことです」

 「1946年に日本国憲法の草案を作ったのは米国です。しかし、現在まで憲法が変えられなかったのは、日本人が反軍事の理念を尊重してきたからであり、決して米国の意向ではなかった。これは称賛に値するソフトパワーです。変えたいというのなら変えられたのだから、米国に押しつけられたと考えるのは間違っている。憲法は、日本をどんな国とも違う国にしました」

 ――その理念は、なぜ、どこから生じたのでしょうか。

 「日本のソフトパワー、反軍事の精神は、政府の主導ではなく、国民の側から生まれ育ったものです。敗戦直後は極めて苦しい時代でしたが、多くの理想主義と根源的な問いがありました。平和と民主主義という言葉は、疲れ果て、困窮した多くの日本人にとって、とても大きな意味を持った。これは、戦争に勝った米国が持ち得なかった経験です」

 「幅広い民衆による平和と民主主義への共感は、高度成長を経ても続きました。敗戦直後に加えて、もう一つの重要な時期は、60年代の市民運動の盛り上がりでしょう。反公害運動やベトナム反戦沖縄返還など、この時期、日本国民は民主主義を自らの手につかみとり、声を上げなければならないと考えました。女性たちも発言を始め、戦後の歴史で大切な役割を果たしていきます」

 ――政治は何をしたでしょう。

 「私の最初の著書は吉田茂首相についてのものですが、彼の存在は大きかった。朝鮮戦争の頃、国務長官になるジョン・ダレスは、憲法改正を要求してきました。吉田首相は、こう言い返した。女性たちが必ず反対するから、改憲は不可能だ。女性に投票権を与えたのはあなた方ですよ、と」

 「その決断はたいへん賢明だったと思います。もし改憲に踏み込めば、米国はきっと日本に朝鮮半島への派兵を求めるだろうと彼は思った。終戦のわずか5年後に、日本人が海外に出て行って戦うようなことがあれば、国の破滅につながると考えたのです」

 「その決断の後、今にいたるまで憲法は変えられていません。結果、朝鮮半島ベトナムに部隊を送らずに済んだ。もし9条がなければ、イラクアフガニスタンでも実戦に参加していたでしょう。米国の戦争に巻き込まれ、日本が海外派兵するような事態を憲法が防ぎました」

    ■     ■

 ――現政権が進める安保法制で、何が変わると思いますか。

 「日本のソフトパワーが試練にさらされています。集団的自衛権の行使に踏み込み、日本を『普通の国』にするというのが保守政治家らの考えですが、普通とは何を指すのか、私には分かりません。国際的な平和維持に貢献するといいつつ、念頭にあるのは米軍とのさらなる協力でしょう。米国は軍事政策が圧倒的な影響力を持っている特殊な国であり、核兵器も持っている。そんな国の軍隊と密接につながるのが、果たして普通なのでしょうか」

 ――戦後の日本外交は、米国との関係を軸にしてきました。

 「日本の外交防衛政策を知りたければ、東京でなくワシントンを見ろとよく言われます。環太平洋経済連携協定(TPP)への参加しかり、アジアインフラ投資銀行(AIIB)加盟についての判断しかり。核戦略を含め、米国の政策を何でも支持するのが日本政府です。その意味で、戦後日本の姿は、いわば『従属的独立』だと考えます。独立はしているものの、決して米国と対等ではない」

 「過去を振り返れば、安倍晋三首相がよく引き合いに出す、祖父の岸信介首相が思い浮かびます。岸首相は確かに有能な政治家ではありましたが、従属的な日米関係を固定化する土台を作った人だと私は考えています」

 「同様に、孫の安倍首相が進める安全保障政策や憲法改正によって、日本が対米自立を高めることはないと私は思います。逆に、ますます日本は米国に従属するようになる。その意味で、安倍首相をナショナリストと呼ぶことには矛盾を感じます」

 ――現在のアジア情勢を見れば、米軍とのさらなる協力が不可欠だという意見もあります。

 「尖閣諸島南シナ海をめぐる中国の振る舞いに緊張が高まっている今、アジアにおける安全保障政策は確かに難題です。民主党の鳩山政権は『東アジア共同体』構想を唱えましたが、それに見合う力量はなく、米国によって完全につぶされました」

 「だからといって、米軍と一体化するのが最善とは思えません。冷戦後の米国は、世界のどんな地域でも米軍が優位に立ち続けるべきだと考えています。中国近海を含んだすべての沿岸海域を米国が管理するという考えです。これを米国は防衛と呼び、中国は挑発と見なす。米中のパワーゲームに日本が取り込まれています。ここから抜け出すのは難しいですが、日本のソフトパワーによって解決策を見いだすべきです」

    ■     ■

 ――対外的な強硬姿勢を支持する人も増えています。

 「ナショナリズムの隆盛は世界的な文脈で考えるべきで、日本だけの問題ではありません。今、世界のいたるところで排外主義的な思想がはびこり、右派政治の出現とつながっています。グローバル化による格差が緊張と不安定を生み、混乱と不安が広がる。そんな時、他国、他宗教、他集団と比べて、自分が属する国や集まりこそが優れており、絶対に正しいのだという考えは、心の平穏をもたらします。そしてソーシャルメディアが一部の声をさらに増殖して広める。これは、20年前にはなかった現象です」

 「北朝鮮や中国は脅威のように映りますが、本当に恐ろしいのはナショナリズムの連鎖です。国内の動きが他国を刺激し、さらに緊張を高める。日本にはぜひ、この熱を冷まして欲しいのです」

 ――では、日本のソフトパワーで何ができるでしょうか。

 「福島で原発事故が起き、さらに憲法がひねり潰されそうになっている今、過去のように国民から大きな声が上がるかどうかが問題でしょう。今の政策に国民は疑問を感じています。安倍首相は自らの信念を貫くために法治主義をゆがめ、解釈によって憲法違反に踏み込もうとしている。そこで、多くの国民が『ちょっと待って』と言い始めたように見えます」

 「繰り返しますが、戦後日本で私が最も称賛したいのは、下から湧き上がった動きです。国民は70年の長きにわたって、平和と民主主義の理念を守り続けてきた。このことこそ、日本人は誇るべきでしょう。一部の人たちは戦前や戦時の日本の誇りを重視し、歴史認識を変えようとしていますが、それは間違っている」

 「本当に偉大な国は、自分たちの過去も批判しなければなりません。日本も、そして米国も、戦争中に多くの恥ずべき行為をしており、それは自ら批判しなければならない。郷土を愛することを英語でパトリオティズムと言います。狭量で不寛容なナショナリズムとは異なり、これは正当な思いです。すべての国は称賛され、尊敬されるべきものを持っている。そして自国を愛するからこそ、人々は過去を反省し、変革を起こそうとするのです」

    *

 John Dower 38年生まれ。マサチューセッツ工科大学名誉教授。著作に「吉田茂とその時代」、ピュリツァー賞受賞の「敗北を抱きしめて」など。

 ■取材を終えて

 とても大切なものなのに、思いのほか、本人は気づいていない。外から言われて、かけがえのなさを知る。よくあることだ。敗戦後に日本が手にしたものこそ世界に誇りうる、という指摘にはっとした。そうか、自分たちの手元を見つめればいいんだ。

 戦後の日本人は立場を問わず、自らの国を愛することに不器用になっていたのだろう。反発したり、逆に突っ走ったり、どこかの国に依存したり。愛国という言葉に素直になれない。70年前、形容しがたいほど惨めで痛ましい敗戦を経験し、国家への信頼を一度、完全に失ったのだから、それも当然なのだが。

 戦後70年の夏は、この宿題に向き合う好機かもしれない。国家という抽象的なものではなく、戦後を生き抜いた一人ひとりの道程にこそ、よって立つ足場がある。

 (ニューヨーク支局長・真鍋弘樹)