いままでの記録 [3]


同じ人間として見る 2014/9/3(水) 午後 11:22 

政治の世界は、私たちひとりひとりの感情やものの見方が映し出されているが、国家という閉じ込められた観念でお互いを見ている中に、他者を色づけして見る偏見が根深くひそんでいるようです。同じ人間として相手を見る中に、ありのままの姿が見えてくることが、今日の中学生「声」から学ぶことができます。

 *(声)日中関係、相手をよく知ろう  朝日 2014年9月3日
  中学生 金森陽菜(ひな)(埼玉県 15)

 私は中国で生まれ育ち、小学4年の時、日本に来ました。中国にいた幼い頃、日中戦争を描いたテレビドラマを祖父とよく見ました。日本軍の軍人が憎々しげな表情で中国人に「バカヤロウ」と言うなど、日本人はとても悪く描かれていました。中国では日本にあまりいいイメージがなく、私もドラマのせいで、「日本人は怖い」と思い込んでいました。

 日本の小学校に転校したとき、不安だらけでした。でも同級生が「一緒に遊ぼう」と言ってくれたり、先生が日本語のできない私を助けてくれたり、とても優しくしてくれました。「ありがとう」や「ごめんなさい」をはっきり言う日本の礼儀正しい文化も、非常に素晴らしいと思いました。

 ところが最近、日中関係がとても悪いと報道されています。でも、噂(うわさ)のようなイメージを勝手に信じ込み、相手の国の人々をよく知らないまま否定しているのが原因ではないでしょうか。

 実際に相手の国に行ってみて、様々な視点で見るべきです。中国にも良い点はたくさんあります。相手の国をちゃんと知ろうとすることが、関係改善の第一歩だと思います。


子どもが見えていない 2014/10/14(火) 午前 2:22 

私は子どものころから大人や社会に疑問と反発を感じて育ってきました。親も教師も、そして会社でも政治の世界でも・・「自分は知っている」という知識・経験が他者を支配する社会構造になっているようです。

教育は社会の一部ですから、いじめや暴力はそのような社会を反映した結果なのだが、大人は子どもを抑えつける方向にしか目がいかないのです。

この中学生が言うように、大人は成長するにつれて他者に対して鈍感になり、目の前の事実というものが見えなくなっていくのだろう。

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朝日(声) 若い世代 窮屈に感じる道徳の授業  2014年8月18日

 中学生 吉田慎一朗(東京都 14)

 道徳の授業は子どもの心に寄り添っているでしょうか。授業では美徳を押しつけられます。教科書にある模範的な友人関係は容易には築けません。読むほどに非現実的です。きれいごとを並べただけにしか思えません。

 子どもは大人が考えるほど単純ではありません。それぞれに悩みを抱え、論理的に処理できない感情のもつれの中で、日々、もがき苦しんでいます。最低限の善悪や道徳なら、教わらなくても分かっています。だから、つい反発したくなります。分かりきったことを押しつけられるのは腹が立つし、型にはめられたら窮屈です。心のケアどころか、「心の束縛」と感じます。

 大人になると、子どものころの複雑な感情を忘れてしまうのでしょうか。子どもが大人に相談できないのも、大人が気持ちを理解してくれないからではないでしょうか。道徳教育の中身を見直してもらいたいです。


ある風景 2014/11/10(月) 午後 11:10 

子どもの表情と風景が浮かんでくるような・・・


朝日(声)「20分間の名医」に癒やされた  2014年11月6日
  会社員 阿部裕子(東京都 56)

 夜にケガをしてしまい、救急病院で応急処置を受け、翌朝、別の病院に向かいました。顔面を強打し、片目以外はガーゼで覆われた状態で、よろよろとバスに乗りました。

 座った途端に「痛いの?」。15歳くらいの可愛らしいお嬢さんでした。私が顔に手をやったり、小さくため息をついたりするたびに「痛いの?」。私はけがでしゃべれないので、手まねで「大丈夫」と伝えると、「治った?」と明るく笑ってくれます。

 そんな会話を20分近く繰り返しているうちに、だんだんと気持ちが癒やされてゆきました。

 ショックと痛みで眠れぬまま夜明けを迎え、冷え切っていた私の心に、彼女は難なく飛び込んできて、わずか20分で私を救ってくれたのです。

 「バイバイ」と元気に手を振りながら降りていった彼女。まっさらな心で、見ず知らずの私を思いやってくれた彼女は、きっとその「個性」で、出会う人たちを笑顔にしているんだろうな。今もあの明るい声が聞こえるようです。「治った?」って。「うん、治ったよ、ありがとうね、20分間の名医さん」


選挙とは 2014/12/5(金) 午前 0:41 

政治家・・それを支えている国民という名の競争社会・・・強者の論理がいまの退廃的社会をつくっていることにだれが気付いて、それでも選挙に行くのだろうか。

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(2014衆院選アベノミクスは正解か 浜矩子さん 2014年12月2日
 ■強者だけ生き残る社会は滅ぶ 浜矩子さん(同志社大学教授)

 アベノミクスは崩壊しつつあると思います。金融の異次元緩和で円安、株高を導き出したけれど、輸出数量は期待したほど伸びず、輸入価格が上昇して生活と生産のコストが上がっている。家計や中小企業は圧迫されています。

 株価が上がれば、経済がよくなるという考え方は本末転倒です。本来は、実体経済がよくなって株価が上がるものです。しかも上がったといっても、日経平均は2万円に届かない。株をたくさん買っているのは外国人投資家で、彼らは売るために買うから長続きしない。円安と株高の二つの芸だけでは経済政策の限界は明らかです。

 ■まだ成長戦略?

 世論調査の結果をみても、多くの人が景気がよくなったと感じていません。何をやっても、なかなか思った通りにいかず、衆議院を解散したのではないか。下手な将棋士が将棋盤を眺めて「もう、いやっ」とひっくり返すように。

 最大の眼目が成長戦略だというのも時代錯誤です。確かに発育過程には成長が必要でしょう。でも日本経済はもう大人。成熟しているのに、まだ成長戦略ですか。お年寄りにドーピングして、100メートルを9・9秒で走れ、と言うようなものです。副作用どころの話ではない。格差が広がっているのに重点政策の視点が違っています。

 アベノミクスは強い者をより強く、弱い者はそのままにしておく政策だと言わざるを得ません。株高などの恩恵に浴した富裕層から富がしたたり落ちる「トリクルダウン」が効くのだと称して、熱い部分をどんどん熱くしている。

 その結果が人手不足です。おかげで、中小企業は人手が足りずに増産もできない。富はしたたり落ちていないのです。そんな状態では、創造力豊かな面白い発想が生まれるはずもありません。

 消費増税はいずれやらなければならなかった、というのは分かります。所得税に依存する今の税体系は、戦後のサラリーマン世帯中心の社会を想定したものです。消費税を導入した1989年当時も世界に冠たる平等社会で、「分厚い中間層」がまだ健在だった。しかも税率は3%です。

 今は非正規社員が増え、貧困の連鎖が起きている社会です。なんの激変緩和措置もなしに税率が8%になり、それが死活問題となる人々が出てきている。

 再増税の先送りはそりゃそうでしょう。でも、なぜ1年半先の2017年4月なのか。その間になんとかなると思っているのでしょうか。このままではデフレ脱却は夢のまた夢だと思います。

 やるべきことは別にあります。最大のテーマは、これまでに蓄えた富をどう分かち合うか、いかに分配するかです。それができていないから豊かさの中に貧困が存在しているのです。

 ■内部留保に課税

 所得の低い人ほど負担感が大きい消費税を引き上げていくなら、軽減税率の導入は当然です。生活必需品の税率を下げ、ぜいたく品には逆に「重増税率」を適用していい。高額所得者に対する金持ち増税、企業の内部留保への課税なんかも考える必要があります。

 そもそも成長戦略と大仰に言わずとも、ずうたいのでかい経済が1~2%も成長すれば、すごいことです。日本経済の完成度は高く放っておいても回る。でも回転の輪の中に貧困が存在するから足腰の強い経済が実現しない。彼らがちゃんと暮らせるようにすれば、結果的には成長率アップだって、それが必要かどうかはともかく、実現する可能性はあるでしょう。

 めざすべきは、多様な人々が参画できる社会です。強い人たちだけが生き残る均一化した社会は、必ず滅びます。東京と地方の関係も同じ。東京一極集中が進んで、地方が疲弊して立ちゆかなくなると多様性が失われます。

 安倍政権は「地方創生」を掲げて、ストーリー性やテーマ性、観光資源の発掘を目指せとあおります。地方は皆、テーマパークになれということですかね。地域を再生するために本当に必要なものは何か。高齢化対策か、少子化対策か、働く場所の確保か、それぞれの地域がまず自らを分析しなければならない。分析結果に基づく取り組みを政府がアシストする。これがまともな姿でしょう。


政治・経済・・私たちの心 2015/1/14(水) 午後 1:32 

私がよけいなことを言わなくても、人々の意見に耳を傾ける・・そんな記録でもいいと思う。
選挙・・政党支持率・・政治とは・・社会とは・・人々の心とは・・・。


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(報われぬ国 負担増の先に)介護職不足 特養急増、薄い人手  2015年1月13日

 ◇第3部 療養不安

 4階建ての特別養護老人ホーム(特養)は、真新しいホテルのような外観がひときわ目立つ。昨年、東京23区内にオープンしたばかりだ。

 ところが、個室100室のうち40室がいまも使われていない。空き部屋のベッドにはマットが包装されたまま置かれていた。

 一度に入居すると混乱するため、オープンから少しずつ入居を進めてきたが、数カ月で受け入れられなくなった。原因は介護職員の不足だ。

 70人ほどの職員が必要だったが、50人ほどしか集まっていない。若い人のなり手が少なく、新卒採用ができなかった。

 50歳以上の中高年の応募は多かったため、施設長は「60歳以上でも採用した」という。だが、介護職の経験者が3割ほどしかおらず、経験が浅い職員ばかりでは入居者を増やすわけにはいかなかった。

 ■1年で17施設

 東京23区は高齢化で特養の入居を望む人が増えているため、特養の新設ラッシュが起きている。昨年1年間で17施設がオープンし、介護保険制度ができた翌年の2001年の14施設を上回って過去最多になった。

 最も新設が多かった足立区は5施設がオープンした。足立区介護保険課は「特養の建設は2年はかかる。介護職不足はこの1年余りで深刻になったので想定外だった」と説明する。

 しかし、23区内のある特養の施設長はこういう。「ハコをつくっても人がいなければ意味がない。職員の養成や待遇改善を後回しにしてきたつけだ」

 ■夜勤、月7日泊

 特養は全国で急増している。厚生労働省によると、09年の約6500施設から14年には約9千施設まで増えた。

 一方、施設で働く介護職員の月給は、13年時点で全職種の平均より約10万円低い約22万円にとどまる。さらに人手不足から、職員は厳しい勤務を続けている。

 福島市の隣の伊達市にある特養「孝(こう)の郷(さと)」では、入居者60人に対し、介護職員が41人、看護師が4人いる。だが、夕方から翌朝までの夜勤ができる職員らは限られてしまう。

 夜勤は、看護師1人、介護職員2人の3人体制だ。看護師は4人のうち2人がパートだったり幼い子どもがいたりして夜勤に入れないため、2人が1日おきに泊まらざるを得ない。どちらかが病気などで入れず、3日続けて泊まることもあるという。

 介護職員もパートなどを除く25人ほどしか夜勤に入れない。どうしても若い男性の職員にしわ寄せがきて、月に6~7日泊まる職員もいるという。

 入居者の多くは認知症で、歩き回る人もいて目が離せないため、3人体制ではほとんど眠ることもできない。八島利幸施設長は、夜勤をする職員の昼間の負担を軽くするなどして体調や休みに気を配る。

 「いまのままではきつくて汚い仕事の代表と言われてしまう。ほかの仕事に流れるのが人情です」。八島さんはそう心配する。

 ■預け先を探し

 介護職不足は利用者や家族にも大きな問題だ。

 働きながら母親(87)を介護する女性(53)は昨年秋、母を短期間預けるショートステイの施設をかえざるを得なくなった。

 東京23区内で2人で暮らしている。母が股関節を骨折して歩けなくなった一昨年春から、近くの特養のショートステイを月2回利用してきた。

 仕事がある昼間はヘルパーを頼むが、帰宅後は食事や排泄(はいせつ)の介助でくたくたになる。3~4泊のショートステイは、心も体も休める貴重な時間だった。

 しかし、この特養は昨年11月、ショートステイの受け入れを休止した。職員が10人以上退職し、人手が足りなくなったからだ。

 区内のほかの特養に問い合わせると、ショートステイはどこも2カ月先まで予約でいっぱい。仕方なく隣の区にあるショートステイ専門の施設に預けたところ、すべて個室のため、4人部屋だった特養より1泊約2千円多くかかった。

 入所は午後、退所は午前と決められているため、どちらも仕事で立ち会えず、利用するときはヘルパーを頼む。「超高齢化社会と言われているのに人手が足りず、どう支えていくのでしょうか」と女性はいう。

 ■「虐待心配も」

 「飲ませる薬をまちがえたり、歯磨きが不十分で気管に食べかすが入ってしまったり。職員が忙しすぎて深刻なミスが続いている」。東京23区内の別の特養の介護職員はそう明かす。

 この特養の入居者の定員は100人。職員は約50人いるが、フルタイムで働けるのは20人に満たない。残りは勤務日数が少なく短時間しか働けないパート職員のため、日中でも1人の職員が10人の入居者を世話しなければならない。

 一昨年にオープンしたときはフルタイムの職員が30人近くいたが、給料の低さなどを理由に相次いでやめた。この職員は「ストレスがたまって虐待をしてしまわないか。そんな心配までしています」という。

 ■高校生や外国人、就業へ模索 介護報酬論議、待遇改善は先見えず

 山形県鶴岡市で特養などを運営する社会福祉法人「山形虹の会」は介護の学校に今春入る人向けに、虹の会に将来就職すれば返さなくてもいい奨学金制度をつくった。月に5万円を支援する。

 井田智事務局長によると、介護の学校に通う学生の多くは奨学金を使うが、介護の仕事では奨学金を返すだけの給料が得にくく、ほかの業界に流れやすい。これを防ぐねらいだ。

 青森県内の特養は今年度から、野球や吹奏楽の強豪として知られる山梨県の高校と連携し始めた。練習試合などで交流する高校に特養を紹介してもらい、介護に関心がある生徒につないでもらう。今年度は沖縄県石垣島の高校生1人の採用が内定した。今後、連携する高校を広げるという。

 滋賀県彦根市の特養「近江第二ふるさと園」では、フィリピン人のサンティアゴ・ロベルト・アルバさん(33)が働いている。日本とフィリピンの経済連携協定に基づき、介護福祉士候補として受け入れた。

 経済連携協定に伴う外国人受け入れは2008年に始まった。原則4年間(特例あり)の滞在中に介護福祉士の国家試験に受からないと、帰国しなければならない。

 ふるさと園を運営する社会福祉法人はまた、04年から中国や韓国などの大学の学生を1~2カ月受け入れ、介護を体験してもらっている。これまでに368人の学生がきた。

 大久保昭教(あきのり)理事長は「アジアの学生は明るくて意欲も高い。国は早く本格的な受け入れを進めてほしい」と話す。政府も外国人を最長3年間受け入れる技能実習制度の職種に介護職を加えることを検討している。

 ただ、厚生労働省は25年にはいまより70万人ほど多い約250万人の介護職が必要になると予想している。一定の日本語を話す必要があるなど外国人の受け入れには時間がかかり、「決定打にはならない。国内の人材確保の強化が基本だ」(担当者)という。

 しかし、介護職不足への対策は後手に回る。政府は今年4月、予算や介護保険の支出増を抑えるため、介護サービスに払う介護報酬を全体で2・27%下げる。介護職員の待遇改善をする施設には給料を月1万2千円増やすための加算もするが、それだけで待遇改善が十分に進むとはいえない。(松浦新、伊藤弘毅、本田靖明、生田大介)


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コメント(1)
 顔アイコン 私の書き込みちゃんと届いてますか(゜ー゜*)
やっぱりブログの初コメントって緊張しますね。。。

個人的な事から書いてしまうんですけど、ずっと嫌なことが続いていて、正直何度か挫けそうになったんです。
でも、yamamomoさんのブログを拝見してからは、頭でっかちにならずに、一度初心に返ってみるのも大切だと思いました(o^∀^)

うまくいえないけど、私が中学校の頃に読んでいた小説家さんの文体に似てるんですよね。
あとは着眼点とか。
そういう忘れかけた大切なのを思い出させてくれるブログでした。

おかげで、すごく前向きになれたし、また頑張ろうと思えたのも本当ですo(≧∇≦o)
よかったら私の悩みを一つだけ聞いてもらえませんか。

つまり相談に乗って欲しいんです。
koikaren@i.softbank.jp

私の直接の連絡先なんですけど載せます。
yamamomoさんからの連絡待ってます(o´∀`o)  削除
2015/1/16(金) 午後 2:06 [ tf5*zz*ze*fb ] <<コメントに返信する


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自己の防衛は攻撃につながる 2015/2/10(火) 午前 1:03 

中学生が、世界の問題である戦争やその背景にある政治・憲法について真剣に考えている。国家や民族・宗教にしても、私たち個人の関係でも、武器や軍隊は「自分を守るため」だと言うが、自己の防衛は攻撃を意味するのが、人類の歴史ではないか。

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(声)若い世代が不安にならぬ政治を  2015年2月8日 中学生 杉本優輝(神奈川県 15)

 安倍晋三首相が「経済優先」と言っているのを聞く。経済ばかりが優先すべきことなのだろうか。例えば、発生からもうすぐ4年になる東日本大震災の被災地の現状はどうだろう。今も仮設住宅に住み、つらい生活を余儀なくされている人は多い。

 政治はよく分からないところもある。だが、2020年の東京五輪パラリンピックに費やす資金があるなら、被災地の復興資金などに充ててほしい。

 安倍政権が集団的自衛権の行使を容認したことも気がかりだ。日本の平和は憲法第9条があるから守られていると思う。だからこそ、平和への願いを託したこの憲法を改正してはならない。戦争を経験した人々の思いを絶対に踏みにじってはいけない。もし憲法が改正されたら、私たち若い世代の未来は大丈夫なのか。とても心配だ。

 安倍首相に言いたい。「被災地から目を背けず、若い世代の将来が不安になるような政治は行わないでください。国民一人ひとりが希望を持てる世の中にしてほしいです」と。


(声)戦力の保持を憲法に規定して  2015年2月8日 中学生 下村充希(神奈川県 14)

 我が国は憲法第9条で戦力の保持を禁止している。しかし、それが国民の命を守り、日本の独立を守ることにつながっているのか。戦力の不保持の条文が有意義だと思われているのは、「陸海空軍その他の戦力」が「戦争」につながるという固定観念があるからではないだろうか。

 国民の生命と財産、権利を守ることは、国家の責任である。しかし現在の憲法では、有事の際に「最初の一発」で犠牲になる国民を守ることができないのではないだろうか。現実に今の日本には、隣国との間に対立がある。例えば、領土問題を巡って一触即発の場面がないとも限らない。

 自衛隊は事実上の軍隊だと思うが、「戦力でない」というのも矛盾だと思う。憲法9条は戦力を持てると明確に規定するべきではないか。改正するにあたっては、過去の侵略戦争を許すようなものであってはならないが。「陸海空軍その他の戦力=戦争」なのか。ぜひ、皆さんに考えていただきたい。


社会を見る  2015/2/18(水) 午前 11:11 

試しにブログというものを始めてみて、そう決めているわけでもないが、朝日新聞の中から私の注目した記事や声を記録しておきたいということからはじまって、それに私の見方を付け加えてきた。かなり前から「社会問題」というファイルに保存してきたものが、このブログに移ったという感じで、気がつくと「社会問題」の方は2014年8月25日(月)付 朝日社説 で途切れていた。

私は、政党支持率とか選挙にも疑問を持っているので、選挙にも行かない。政治は政治家がするものだが、その背景は選挙民・・国民とひとくくりにされている私たちひとりひとりの意志なのだ。政治家は「国民のために」と言うが、その国民というのが自己の利益のために組織集団化して、お互い対立と分裂を繰り返して争っている。
そんな国民の集団化が、メディアの操作によって社会現象となっていることが、最近の国際問題にも見えてくるような評論に出あって、そこに社会現象を見る視点を学ぶことができる。

以前、本多勝一が「メダカの群れ」に例えていたことを思い出す。

「全員が同じ方向に動く」といえば、なだいなだのことばが出てくる。
『 私は、自分のまわりの人間が、右に行けば左に行き、左に行けば右に行こうと思っています。これが、私の生きていくうえでの、唯一の原則といえるでしょう。
ともかくも、これが、私のへそまがりの本当の理由であるので、一見、反社会的、反連帯的な衝動のように見えながら、それが、私の他の人々との連帯意識のあらわれではないかと思うのです。』


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(人質事件とメディア)集団化と暴走を押しとどめよ  朝日 2015年2月11日 
■映画監督・作家 森達也さん

(人質事件とメディア)苦しむ人の痛み想像できるか
 渦中の報道を見聞きしながら、気になったことがあります。安倍晋三首相は事件について語るとき、まずは「卑劣な行為だ、絶対に許せない」などと言う。国会で質問に立つ野党議員も、いかにテロが卑劣か、許せないかを、枕詞(まくらことば)のように述べる。そんなことは大前提です。でも省略できない。

 この光景には既視感があります。オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたときも、オウムについて語る際には、まずは「卑劣な殺人集団だ、許せない」などと宣言しなければ話ができない、そんな空気がありました。

 大きな事件の後には、正義と邪悪の二分化が進む。だからこそ、自分は多くの人と同じ正義の側だとの前提を担保したい。そうした気持ちが強くなります。

 今の日本の右傾化や保守化を指摘する人は多いけれど、僕から見れば少し違う。正しくは「集団化」です。集団つまり「群れ」。群れはイワシやカモを見ればわかるように、全員が同じ方向に動く。違う動きをする個体は排斥したくなる。そして共通の敵を求め始める。つまり疑似的な右傾化であり保守化です。

 転換点は1995年。1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があった。ウィンドウズ95が発売された。巨大な天災と未経験の人災に触発された不安や恐怖感が、ネットを媒介にして拡大していく。その始まりの年でした。

 不安と恐怖を持ったとき、人は一人でいることが怖くなる。多くの人と連帯して、多数派に身を置きたいとの気持ちが強くなる。こうして集団化が加速します。

 群れの中にいると、方向や速度がわからなくなる。周囲がすべて同じ方向に同じ速度で動くから。だから暴走が始まっても気づかない。そして大きな過ちを犯す。

 ここにメディアの大きな使命があります。政治や社会が一つの方向に走りだしたとき、その動きを相対化するための視点を提示することです。でも特に今回、それがほとんど見えてこない。

 多くの人は「テロに屈しない」という。言葉自体は正しい。でも、そもそも「テロ」とは何か。交渉はテロに屈することなのか。そんな疑問を政府にぶつけるべきです。「テロに屈するな」が硬直しています。その帰結として一切の交渉をしなかったのなら、2人を見殺しにしたことと同じです。

 今回の件では、政権は判断を間違えたと僕は思います。でも批判や追及が弱い。集団化が加速しているから、多数派と違う視点を出したら、社会の異物としてたたかれる。部数や視聴率も低下する。たしかにそれは予測できます。

 メディアも営利企業です。市場原理にあらがうことは難しい。でも今は、あえて火中の栗を拾ってください。たたかれてください。罵倒されながら声をあげてください。朝日だけじゃない。全メディアに言いたい。集団化と暴走を押しとどめる可能性を持つのはメディアです。それを放棄したら、かつてアジア太平洋戦争に進んだ時の状況を繰り返すことになる。

 「イスラム国」の行為に対して「人間が行うとは思えない」的な言説を口にする人がいます。人間観があまりに浅い。彼らも同じ人間です。ホロコーストにしても文化大革命にしてもルワンダの虐殺にしても、加害の主体は人間です。人間はそうした存在です。だからこそ交渉の意味はあった。そうした理性が「テロに屈するな」のフレーズに圧倒される。利敵行為だとの罵声に萎縮する。こうして選択肢を自ら狭めている。

 違う視点を提示すれば、「イスラム国」を擁護するのか、などとたたかれるでしょう。誰も擁護などしていない。でもそうした圧力に屈して自粛してしまう。それはまさしく、かつての大日本帝国の姿であり、9・11後に集団化が加速した米国の論理です。米国はイラクに侵攻してフセイン体制を崩壊させ、結果として「イスラム国」誕生につながった。このとき日本は米国を強く支持したことを忘れてはいけません。同じ連鎖が続きます。

 多数派とは異なる視点を提示すること。それはメディアの重要な役割です。(聞き手 編集委員・刀祢館正明)


男の暴力 2015/2/21(土) 午前 3:33

前回も書いたが、2年ほど前からこのブログを始めて、ほとんど「ひとりごと」のつもりで書いてきた。掲示板もい10年ほど前から投稿して、はじめは何もわからず、それでも人に声をかけたり、私の方にかかってきたりして、はじめはPCのキイも右指1本で朝日が昇るころになってやっと書き終えることも多かったが、自己流でひと月もしないうちに両手で打つことができるようになった。数年はそんな言葉のやり取りに熱中したが、この数年は「ひとりごと」での学習の場になっている。
そんな時、私に話しかけてくるひとがいることに気がついて、最近メールや他のブログで意見の交換をしているが、不思議なもので人と話していると数年前の活気が戻ってきて、ここでも月1回でなく、思いつくとすぐに書くようになってきた。いまも朝の3時前になって、そろそろ寝なければならない・・今日は午後7kmほど歩く予定がある。

最近、女性の問題・・子育てに悩む母親とか、その子育てに父親が協力してくれないことが、後の離婚の原因になることもNHKの番組で見ている。それと、やはり子育てと仕事の両立で悩む母子家庭の問題は、むかしから政治的にもあまり改善されていないようだ。

そして、社会問題でもあり、毎日のニュースにも出てくる国際問題としての女性に対する性暴力の問題は、被害者の女性の体と心に忘れることのできないキズを残しているが、社会が進歩しても人間の心はそれについていけないのだろうか。

私の子どものころとは確かに家庭の様子も違ってきたが、それでも家庭での夫婦としての、父親と母親の、そして親子の関係には日本の伝統のような・・上下関係が粘り強く残っていて、そう簡単に変わるものでもないことが、さまざまな事件を通しても見えてくる。事件は割合から見ればほんのひとにぎりかもしれないが、氷山の一角ということも考えられる。

どちらにしても、男が加害者になる問題ともいえるので、一般的な「男の暴力」について調べてみた。

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・DV男が暴力のあとに優しくなる理由

DVをする人は『自分の怒りを理解して欲しいから殴る』のです。そして無意識的ですが、強制的に相手に『理解した態度を無理やりさせることで伝わったと勘違いする』のでその後、鎮静するわけです。
しかしDV男の根本原因が解決されていないので、また同じことが起こるのです。

DVの男性は無意識の連鎖の影響がまったく理解できていないのです。

実は、その怒りは目の前の暴力を振るわれている人への怒りではないのです。
自分自身の未解決問題の怒りなのです。

本当に怒りをぶつけなければいけない相手は他にいます。
自分との闘いです。


・なぜ男性は暴力を振るうのか

まず初めに断っておきますが、暴力を振るう夫や恋人を、学歴・年収・職業・社会的地位・人種・民族・宗教・地域などで分類することは出来ません。
なぜなら、DVの発生は、これらのすべての範疇に及んでいて、その特徴を示さないからです。
そして、この事は同時に、暴力を受ける女性の特定、分類も不可能であることを示しています。
つまり、すべての人がDV加害者になる可能性を持ち、すべての人がDV被害者になる可能性を持っているのです。
DV加害者の性格・心理パターン
必ずしもぴったりと当てはまるわけではないのですが、ある程度の性格傾向を示します。以下に紹介します。

Ⅰ性別役割を当然と考えている
妻は家に居て、夫に黙って付き従うのが当然と考えています。
決定権が夫にあるものと思っていることの根拠がここにあります。
男女が対等であるなどという考えは全く理解しようとしません。
相手が女性というだけで、自分のほうが優位にあるという錯覚を起こしています。
ですから、「出来る女性」を見ると、「あんなのは女じゃない」と否定したがります。

Ⅱパートナーに対する過剰な期待と過度の依存
自分の理想の女性像をパートナーに求めます。
そのイメージとパートナーが少しでも違っていると、パートナーを許せなくなってしまいます。
そして、そのギャップを埋められないことをパートナーのせいにします。
自分の無力さを、パートナーの「努力不足」のせいにします。
そして、そういうパートナーと一緒に居る自分が不幸者だと、勝手に被害者になろうとします。
自分が愛するように、またはそれ以上にパートナーも自分を愛することを求めます。
その愛情は、「自分が愛だと感じる」愛し方でないと、愛とは認めようとしません。

Ⅲ嫉妬深い
後で説明する支配欲・独占欲へとつながっていく感情です。
パートナーが他人と接触するだけで腹が立ってきます。
しかし、自分が他の女性と親しくすることに対してはなんとも思っていません。
嫉妬は、実は、人間関係の不安定さの証明です。疑心暗鬼になり、人間関係はうまく行きません。
この感情が、「身体的暴力」「心理的暴力」「社会的隔離」「性的暴力」につながっていきます。
ここで大事なことは、「嫉妬心」と「愛情」は全く別のものだということです。
暴力にさらされていると、ここのところが麻痺してきます。
このことをぜひ覚えておいてください。

Ⅳ支配欲・独占欲
暴力夫の大半は、家庭の安全が保たれているのは、自分のおかげだと思っています。
そして、これからもその安全を守るのは、男であり、一家の大黒柱である自分自身だと思いこんでいます。
また、この様に思うことが家族への愛情だと本気で思っています。
このため、家のことに口を出されると、それだけで激怒します。
なぜなら、家庭内での主導権が脅かされると感じてしまうためです。

Ⅴ神経過敏で傷つきやすい
あれほどの身体的暴力や心理的暴力、言葉の暴力を振るう男性も、びっくりするほど傷つきやすい心の持ち主です。
自分を傷つける言葉には非常に敏感です。
また、傷つけられると、今度はその感情に対して押さえが利かなくなります。
感情のコントロールの欠如(コントロール障害)している彼らの怒りは尋常ではありません。
DVによって死者が出るほどですから、そのコントロール欠如については理解していただけることでしょう。
特に厄介なのは、いらいらしているときは、誰が何をしても、誰も何もしなくても、気に入らなくて怒りが表出する点です。

Ⅵ内弁慶の外地蔵
多くのDV男性は、会社では仕事熱心であったり、信望の厚い人物であったり、有能な人材であったりします。
地域でも、温厚で人柄がよく、面倒見の良いパパさんという評価をされています。
ところが、家の中では態度が一変するのです。
これでは、パートナーは1日中ずっと夫のご機嫌伺いをしていなくてはなりません・・・

セックスについて
DV男性は、性行為によって自分の支配関係を確認しています。
自分の望むセックスプレイを強要し、それに黙って従う相手に対しては、征服感と安心感に満たされます。
しかし、それを嫌がる相手に対しては、それだけで自分に対する愛情が無いと決め付けます。
そして、そのプレイの恥辱度と、自分への愛情を比例させて考えます。つまり、自分の要求するどんな行為も受け入れる女性は、自分のことを深く愛してくれているということになるのです。
また、自分が暴力を振るった後で、性行為を求める男性が数多くいます。
ここで、女性が性行為を受け入れると、男性は、自分のした行為すべて(暴力も含めて)が許された証拠だと錯覚します。
女性からすれば、性行為を受け入れなければまた暴力を振るわれるからという場合がほとんどですが(こうなると家庭内レイプです)、男性側にはその自覚が全くありません。

自分の犯した暴力行為について
DV男性の多くは、自分の犯してきた暴力行為に対して、全く無自覚です。
それは、前述してきた様々な要素によるからなのですが、だからこそ、暴力を振るう男性は、変わることは出来ないのです。
パートナーに逃げられても、また新しい女性と暮らし、その暮らしのなかで暴力を繰り返すことになるでしょう。

だからこそ、DVの渦中から脱出しなければならないのです。

では、なぜ、暴力を振るう夫ではなく、振るわれる妻のほうが逃げなくてはいけないのでしょうか。
このことは、別のコンテンツで詳しく述べています。
アメとムチ
結局のところ、男性は、家庭内での支配関係を維持するための暴力を振るうといってしまっても良いと思います。
そして、そのほとんどすべての場合、男性は女性を「1人のかけがえのない人間」としてではなく、自分に付き従う「従属物」や「所有物」としてしか見ていません。
だからこそ、反抗することなど、男性にしてみれば、とんでもないこと、許されざることなのです。そして、そのことを解らせるために、手段として暴力を使用するのです。
しかし、暴力ばかりでは当然女性はたまらなくなって家を飛び出します。
そこで男性は、暴力を振るった後には、必ずといって良いほど、稚拙な方法ではありますが、フォローに走ります。
この繰り返し(私は個人的に「アメとムチ」と呼んでいます)によって、女性は、暴力を受けていることに麻痺してしまうのです。

*土下座をして謝る。謝りつづける。
*自分の非を認め、パートナーの言う事をよく聞くようになる
など・・・
この時の男性は、まるで、暴力が発覚する前の頃の、やさしく、まめで、まさに自分が愛していた彼そのものです。
こうなると、女性のほうは、「もう1度やり直せるかも」「今度こそ彼は良くなってくれるに違いない」「今の彼が本当の彼なんだ」と錯覚し、次に暴力を振るわれるまで、男性との関係を持続させてしまうのです。


女性の貧困 2015/4/11(土) 午後 4:39 

前回の「男の暴力」は、家庭や社会の人間関係に限らず、経済的な面でも女性を差別する「男性社会の偏見」として世界的にも長い歴史が続いている。
出産と子育てと家事という大変な「仕事」を負わされた女性の時間的・経済的な負担に対する配慮もないのか、日本の長時間労働は女性の選択の幅を狭めて可能性を摘み取っている。


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女性たちの貧困―“新たな連鎖”の衝撃 [著]NHK「女性の貧困」取材班
朝日 書評から [評者]水無田気流(詩人・社会学者) 2015年03月15日  
  
■「見えない」貧しさを告発する

 昨年は、女性や子どもの貧困に関する報道や書籍が話題となった。その端緒を開いたのが、NHKクローズアップ現代「あしたが見えない?深刻化する“若年女性”の貧困?」である。本書は、この番組などの書籍化。反響を呼んだ「20?64歳の単身女性の3人に1人が年収114万円未満の貧困状態」とのデータが示す現状はあまりに過酷だが、これは今まで「見えない」貧困だった。かねてより専門家の間では女性の貧困が問題視されてきたが、世間一般の見方は今なお異なる。若い女性の華やかな外見や、いずれ結婚し男性の被扶養者となるはず……というイメージと、現実との落差はなかなか埋まらない。想像力の貧困も深刻だ。
 登場するケースは、父親の死で母子世帯になり生活が一転した女性や、10年近く夫からの深刻なモラルハラスメント(精神的DV)を受け耐えかねて離婚したシングルマザー、多額の奨学金の返済を抱え非正規雇用の職にしか就けずにいる女性……。社会が想定する「安定した家庭生活」からこぼれ落ちる女性は、近年増加の一途を辿(たど)っている。離婚率は上昇し、母子世帯数もまた増加。同時に、女性の非正規雇用比率も上昇し続けている。女性は家族に養われているはずとの前提が崩れているのに、低賃金・低待遇の雇用環境は改善されない。非正規雇用で、年収200万円未満の収入しか得ていない若年女性(15?34歳)は、全国に289万人もいる。このまま座視するのは、この国の未来を見殺しにするに近しい。
 わずかなきっかけで「普通の暮らし」から突き落とされる女性たちの現状は、この国の制度や慣行が穴だらけであることの証左だ。本書が指摘するように、女性たちを安価な労働力とだけみなし貧困の中にとじこめる構造を変革しなければ、「超」少子化の解消は不可能だろう。政府が謳(うた)う「女性が輝く社会」以前に、なすべき課題は山積している。
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NHKクローズアップ現代「あしたが見えない」は2014年1月に放送


人類の欲望と競争社会の結果 2015/5/6(水) 午前 1:25  

格差と貧困は人類の歴史的な問題であり、心の奥深い欲望と競争社会がつくりだした根深い問題でもあるので、そのような個人の集約した政治には期待できないと思える。貧困者の生活や気持は実感として貧困者にしかわからないものであるから、そういう意味でも、私たちひとりひとりが・・どう感じて、どのように動くか・・・それに待つしかないのだろう。

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(社説)子どもの貧困 大人一人ひとりが動こう  朝日 2015年5月5日

 日本の子どもの今を考えるとき、見過ごせない数字がある。

 16・3%。

 子どもの貧困率である。

 6人に1人が貧困であることを意味している。貧困率とは「世帯収入から国民一人ひとりの所得を試算して順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分に届かない人の割合」をいう。

 ひとり親など大人が1人だけの世帯の貧困率は、5割を超える。先進国の中で最も高い水準だ。

 親を亡くした子どもたちを支援する「あしなが育英会」が、奨学金を受けている高校生にアンケートをしたところ、こんな声が寄せられた。

 「正直あした食べるご飯に困っている。早く自立できたらと何度もふさぎこんだ」

 「学校では食べずにガマンしている。友達といるとお金がかかるのでいつも一人でいる」

 貧しさは、子どもの責任ではない。子どもの貧困から目を背けてはならない。

 ■不十分な政府の対策

 安倍政権は子どもの貧困対策法の成立を受け、総合的な対策を進める大綱を昨年、決めた。

 しかし、ひとり親家庭への児童扶養手当を増やすことは、財源不足などを理由に見送られた。また、子どもの貧困率を下げる数値目標もない。

 政府は民間資金を核とした対策基金をつくる。官民挙げての取り組みは大切ではあっても、将来を担う子どもたちの生活を下支えし、不平等をなくすのは政府の役割だ。「国民全体で負担し、支え合う」という、税制や社会保障政策の出番である。

 その意味で疑問を感じるのが贈与税の非課税枠の拡大だ。

 祖父母や親が、子や孫に教育資金を渡した場合、さらには結婚や出産、子育て用のお金を贈った場合、一定額までは課税されない。

 経済の活性化を狙った対策で、ゆとりのある家庭には恩恵が大きいが、家庭間の不平等を広げかねない危うさをはらむ。再考が必要ではないか。

 ■おせっかいの勧め

 子どもの貧困を解決するうえで政府の役割と責任が大きいとはいえ、それを待ってはいられない現実がある。

 いま、目の前にいる子どもを救うために、大人が手をさしのべることはできるはずだ。

 実際、放っておけないと、各地で人々が立ち上がっている。東京都豊島区のNPO法人「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」もその一つだ。

 夜、家で独りいる子に居場所を用意する「夜の児童館」、1食300円で食事を出す「子ども食堂」、宿題を教える「無料勉強会」、朝、街角で空腹の子にバナナを配る「おはようバナナ」……。

 子どものピンチを知るたびに、メンバーはあの手この手を考えてきた。

 このネットワークは「子どもにおせっかいをしよう」と呼びかける。

 おせっかいは、される側は「踏み込んでほしくない」と考える。する側も「余計なお世話では」と遠慮しがちだ。それが貧困を見えにくくしている。

 同じマンションのエレベーターで子どもと乗り合わせたとき、あいさつをし、世間話をする。そんなささいなことからでも、顔見知りの関係が始まり、外には現れにくい貧困に気づくきっかけになるかもしれない。

 活動している団体に募金をする、という関わり方もある。ちょっと気になる子どもがいるなら、近くの民生委員に話をしてみるのもいい。市町村には、子どもに関する相談を受け付ける窓口もある。

 ■支える連鎖を生もう

 大人が関わることで、子どもを支える連鎖も生まれる。

 母子家庭で育ち、ネットワークの食事会に通う中1の女子生徒は話す。

 「ご飯を作ってくれる人がいる。声をかけてくれる人がいる。私、いま、生きてていいんだと思うようになった。今度は私が困っている子を守る番」

 彼女はネットワークのマークを考えた。ほおにハートのマークをつけたピンク色の「おせっかえる」である。

 おせっかいをされた子は、大人になって次の子におせっかいを返す。だから「おせっかえる」なのだという。

 奨学金を受けてきた大学生たちも、支援活動に加わっている。民間団体の有志らが集まり政策を提言する「子どもの貧困対策センター」。その設立に向けた募金活動を5日に行う。

 「自分らのように子どもに寄り添ってくれる大人と出会えるようにしたい」と彼らは話す。

 きょうはこどもの日。

 子どもは、これからの社会を担う存在だ。彼らを支えれば、未来も変わる。

 少しだけ、おせっかいになってみよう。大人になっても貧困から抜け出せない「貧困の連鎖」を断ち切ることにつながるかもしれないのだから。