死という社会問題


自分がどのようにして死んでいくのか・・これは何とも難しい問題で、できることならその時期に来たら、計画的に実行できればいいが、自分ひとりの行動ではなく、他者の人手や面倒をかけることも考慮しなければならない。
私個人では、葬式も墓も要らないで、海とか土の中にはいりたいが、その手はずも考えて、進めていかなければならない。
それと、最も大きな問題は、家族がいてもいなくても、床に臥せて長い期間面倒をかけるのは、自分にとっても他者にとっても、お互い気を使って耐えがたいことになり、それだけはできれば避けたいものだ。

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(異論のススメ)いかに最期を迎えるか 自分なりの「死の哲学」は 佐伯啓思 朝日 2018年2月2日 
 去る1月21日の未明に評論家の西部邁さんが逝去され、本紙に私も追悼文を書かせていただいた。西部さんの最期は、ずっと考えてこられたあげくの自裁死である。彼をこの覚悟へと至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が決定的に大きい。西部さんは、常々、自身が病院で不本意な延命治療や施設ログイン前の続きで介護など受けたくない、といっておられた。もしそれを避けるなら自宅で家族の介護に頼るほかない。だがそれも避けたいとなれば、自死しかないという判断であったであろう。

 このような覚悟をもった死は余人にはできるものではないし、私は自死をすすめているわけではないが、西部さんのこの言い分は私にはよくわかる。いや、彼は、われわれに対してひとつの大きな問いかけを発したのだと思う。それは、高度の医療技術や延命治療が発達したこの社会で、人はいかに死ねばよいのか、という問題である。死という自分の人生を締めくくる最大の課題に対してどのような答えを出せばよいのか、という問題なのである。今日、われわれは実に深刻な形でこの問いの前に放り出されている。

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 簡単な事実をいえば、日本は超高齢社会にはいってしまっている。2025年には65歳以上の割合は人口の30%に達するとされる。介護施設の収容能力をはるかに超えた老人が出現する。また、現在、50歳で独身という生涯未婚率は、男で23%、女で14%となっている。少子化の現状を考慮すれば、一人で死なねばならない老人の割合は今後も増加することになろう。

 おまけに医療技術や新たな医薬品の開発によって寿命はますます延びる。政府は人生100歳社会の到来を唱え、医療の進歩と寿命の延長は、無条件で歓迎すべきこととされる。しかしそうだろうか。それはまた別の面からいえば、年老いて体は弱っても容易には死ねない社会の到来でもあるだろう。ということは、長寿社会とは、家族の負担も含めて長い老齢期をどうすごすか、という問題であり、その極限に、家族もなく看取(みと)るものもない孤独死、独居死という事実が待ち構えている、ということでもあろう。

 とはいえ、統計的なことをここで述べたいわけではない。超高齢社会とは、人の死に方という普遍的なテーマの方に、われわれの関心を改めて振り向ける社会なのである。近代社会は、生命尊重、自由の権利、個人の幸福追求を基本的な価値としてきた。それを実現するものは経済成長、人権保障、技術革新だとされてきた。しかし、今日、われわれは、もはやこれらが何らの解決ももたらさない時代へと向かっている。近代社会が排除し、見ないことにしてきた「死」というテーマにわれわれは向きあわざるを得なくなっている。

 いくら思考から排除しようとしても、また、いくら美化しようとしても、老・病・死という現実は、とてもきれいごとで片付くものではない。仏教の創始者にとって人間の最大の苦とされた老・病・死の問題は、それが、決して他人には代替不能な個人的な事態であるにもかかわらず、それを自力ではいかんともしがたい、という点にある。徹底して個人の問題であるにもかかわらず、個人ではどうにもならないのだ。自宅にいて家族に看取ってもらうのが一番などといって、政府もこの方向を模索しているが、じっさいにはそれは容易なことではない。また、家族にも事情があり、その家族もいない者はどうすればよいのか、ということにもなる。

 やむをえず入院すると、そこでは延命治療が施される。私は、自分の意思で治療をやめる尊厳死(この言葉には少し抵抗を覚えるが)はもちろん、一定の条件下で積極的に死を与える安楽死も認めるべきだと思う。だが、その種の議論さえ、まだタブー視されるのである。

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 近代社会が、生命尊重や個人の自由、幸福追求を強く唱えたのは、ただ生きていればよいからではなく、個人の充実した生の活動をかけがえのないものと考えたからである。だから、その条件として生命尊重や自由の権利などに重要な意味が与えられたのだ。しかし、人は年老い、活力を失い、病に伏し、死に接近してゆく。これが厳然たる現実である。いくら「充実した生の活動」といっても、その生がかげり、活動が意のままにならない時がくる。

 かつて、この「老い、活力を失い、病に伏し、死に接近する」苦にこそ人生の実相をみたのは仏教であった。自由の無限の拡大や幸福追求をむしろ苦の原因として、この苦からの解脱を説いた。それは、今日の近代社会のわれわれの価値観とはまったく違うものである。ただ仏教が述べたのは、生は死への準備であり、常に死を意識した生を送るべきだということである。死の側から生を見たということである。

 別に仏教が死に方を教示してくれるわけでもないし、仏教の復興を訴えようというのではない。「死」は、あくまで個人的な問題なのである。「死の一般論」などというものはない。自分なりの「死の哲学」を模索するほかない。西部さんの自死は、あくまで西部さんなりの死の哲学であった。ただそれは、「では、お前は死をどう考えるのかね」と問いかけている。答えを出すのはたいへん難しい。だが、われわれの前にこの問いがおかれていることは間違いないだろう。

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 さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論」など