「子どもたちとの対話」から学ぶ・・・・・ 〔掲示板〕1235

【Q&A.観念・信念とは(2)】
『 観念、意見、信念とはどういうことを意味するのか私たちは知っています。それをこの数週間の間十分に議論しました。そこで、愛とは何でしょうか。それは心に属するものでしょうか。

心に属するものがハートを充たすとき、愛は心に属するものです。そして私たちの大抵にとって、それはそうなのです。心に属するもので私たちはハートを充たしています。それは意見、観念、感情、信念です。そしてその周りとその中で、私たちは生き、愛します。

しかしそれは愛でしょうか。私たちは愛を考えることができるでしょうか。愛するとき、思考は働いていますか。愛と思考は反対ではありません。それらを反対物として分割しないようにしましょう。

愛するとき、分離の感じがありますか、人々を結びつける、あるいは人々を解体する、押しやる感じが。確かにその愛の状態は思考の過程が働いていないときのみ経験することができます―それは人が狂気に、不平衡にならなければならないということではありません。とんでもない。超えることは思考の最高の形を要します。

それゆえ、愛は心に属するものではありません。心が本当に静かであるときのみ、心がもはや期待し、求め、要求し、捜し、所有し、妬み深く、恐れ、心配していないとき―心が本当に静かなとき、そのときのみ愛の可能性があるのです。

心がもはやそれ自身を投影し、その特定の感覚、要求、衝動、隠された恐怖を追跡し、自己実現を捜し求め、信念に束縛されていないとき―そのときのみ、愛の可能性があるのです。

しかし私たちの大抵は、愛が嫉妬、野心、個人的欲望と野心の追求と同伴することができると思うのです。確かに、これらのものが存在するとき、愛はありません。それゆえ、私たちは愛に関わるのではなく、それは私たちが特別に求めなくても自発的に生じます。

そうでなく、愛を妨げるものに、それ自身を投影し障害をつくり出す心に属するものに関わらなければなりません。そしてそれが、愛が何であるか知り得る前に、心に属するものの過程が何であるか知ることが重要である理由です。』(K)


私の学習経過:

『 愛とは何か。心に属するものか。心に属するもので私たちはハートを充たす・・意見、観念、感情、信念。その周りと中で、私たちは生き、愛します。

しかしそれは愛か。私たちは愛を考えることができるか。愛するとき、思考は働いているか。

愛するとき、分離の感じがあるか・・人々を結びつける、解体する、押しやる感じが。愛の状態は思考の過程が働いていないときのみ経験できる。

愛は心に属するものではない。心が本当に静かであるときのみ、心が期待し、求め、要求し、捜し、所有し、妬み深く、恐れ、心配していないとき―心が静かなときのみ愛の可能性がある。

心が自身を投影し、感覚、要求、衝動、隠された恐怖を追跡、自己実現を求め、信念に束縛されていないときのみ、愛の可能性がある。

私たちの大抵は、愛が嫉妬、野心、個人的欲望と野心の追求と同伴できると思う。これらが存在するとき、愛はありません。私たちは愛に関わるのでなく、求めなくても自発的に生じる。

愛を妨げるものに、自身を投影し障害をつくり出す心に属するものに関わらなければならない・・愛が何であるか知り得る前に、心に属するものの過程が何であるか知ることが重要である理由。』(K)

『私たちの「愛」とは・・意見、観念、感情、信念の中で生きる・・・だが、期待し、求め、要求し、捜し、所有し、妬み深く、恐れ、心配していないとき―心が静かなときのみ愛の可能性がある。』という。

確かに、心は「いま」「現在」「事実」を見ていないようだ。過去と未来を結び付けて、いまと違うものに変えようとして「何か」を望み、求めて、努力を強いられる・・それに捉われ、信じて、疑うことを忘れる。親は子どもに要求し、自分の生きがいにしてしまう。これは、事実から離れた暴力でもある。