いままでの記録 [6]
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過去の過ちと教育 2016/3/13(日) 午後 11:28
中学生の「調査書」に、過去の万引きが記録されて、進路指導にも使われている・・という実状を知って、私は驚いている。
万引きは法的にも問題になるが、人間が決めた法律に引っかかるから悪と決めつけることに、私は疑問を持つ。
人間はさまざまな間違いをするが、その過ちはその後の人生にいつまでも背負っていかなければならないのだろうか。
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広島中3自死 取り返せぬ学校の失態 朝日 社説 2016年3月13日(日)付
ミスや思い込みが原因というには、あまりに深刻だ。
なぜこんなことが起きたのか。学校は調査報告書をまとめて謝罪したが、生徒の親は納得していない。さらに調査を進め、問題の所在を徹底的に明らかにし、関係者が納得する形で再発防止に努める必要がある。
学校によると、13年10月、広島市内のコンビニ店で別の生徒2人が万引きをした。対応した教諭は、生徒指導の担当教諭に連絡、この教諭がパソコンに記録を入力する際、誤って男子生徒の名を記入したという。
後日、生徒指導の会議で資料が配布され、誤りに気づいた教諭が指摘したが、元データは修正されないままだった。
結果的に進路指導にも使われた資料で、固有名詞の誤りを放置した学校の責任は重い。
だが問題はそれだけではない。担任教諭が十分な確認をせず進路指導にあたったことだ。
担任は昨年11~12月に計5回、個人面談した。万引きについて、生徒が明確に否定しなかったので事実確認ができたと認識したという。面談は廊下で立ったまま、1回5分程度、話しただけだ。進路に関わる以上、プライバシーにも配慮して慎重に確認するべきだった。
目の前の生徒を見ずに、記録を信用する。そんな本末転倒の対応が、重大な結果を招いた一因ではないか。
情報管理のずさんさや、教員同士の連携不足、進路指導のあり方。問われる問題は多いが、見逃せないのは、学校が、生徒が法に触れる行為をすれば入試で推薦しないという基準を設けていたことだ。過ちがあればいくら頑張っても取り戻せない。それで指導といえるだろうか。
教育には、ゼロトレランス(寛容度ゼロ)という考え方がある。非行の行為をランク付けし、段階に応じて罰則を定める生徒指導法のことだ。ルールの大切さを学ぶ効果はあるだろう。だが、罰則を一律に当てはめるだけでは、問題の根本的な解決にはならない。これを機にそのことも肝に銘じたい。
学校教育で大切なのは、先生が生徒と一対一で人間関係を築くことだ。そのためには子どもを個人として尊重することが欠かせない。全国の学校は今回の件を他山の石とし、教育の原点を見つめ直してほしい。
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子どもの貧困・格差と「子どもをどう育てるか」 2016/4/25(月) 午後 5:11
社会・経済の格差が広がる中で、子どもにも教育の格差が問題になってる。それは単に経済の問題ではなく、親が離婚しなくても家族の中にひそんでいた・・両親・親子の関係や、「子どもをどう育てるか」という基本的な「人間の生き方」の問題に行き着くように思われる。
私の学習経過:2016/4/24 (最近書いた掲示板から)
『 感受性は決して強制を通じて生じることができない。子供に無理やり何かさせ、追い詰め、彼は静かにするかもしれない・・が、内部では窓の外を見、逃げ出すために何かしようと煮えくり返るよう・・・。それが私たちが依然としてやっていること。』(Kの言葉から)
確かに、それが子育て・教育・社会で、あたりまえのこととして、常識・慣習として、何の疑いもなく行われていることなのです。
『誰が正しく、誰が間違っているかは?あなた自身でのみ解決〟』(K)
『未知のものは自由・・心の静けさが不可欠である理由。・・制御者と制御されるものはひとつ。』(K)
それは単に子どもたちの問題ではなく、人間の欲望・目的・成功・恐怖・対立・争い・暴力・破壊・悲惨・戦争に至る人類の歴史的な問題・課題でもあるようです。
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養育費と親権 子どもと貧困 朝日(フォーラム) 2016年4月25日
母子家庭の貧困の一因として養育費の不払い問題を考えてきました。不払いの理由に単独親権を挙げる投稿がありました。今回は離婚後の共同親権の導入をどう考えるか、賛成、反対の論者に聞きました。
■別居親の自覚促せ 早稲田大教授(家族法)・棚村政行さん
離婚後も親子であることに変わりはありません。親の都合ではなく、「子どもの権利」が守られる養育のしくみと法律が必要です。
離婚後、子どもが貧困にさらされないようにするためにも、親権は両者が維持し、別居親にも子育ての責任の自覚を促すべきだと思います。
「共同」と言っても、みんなが子にかかわる時間を半々にするのではありません。離婚時に養育費や面会交流を取り決め、進学や医療などの主要な決定には別居親が関わる。欧米の中には、合意できない場合、どちらに優先権があるのかを決める国もあります。裁判所に離婚を届け出るので、DVがあったり、両親の争いが深刻だったりするケースは、面会交流などの際に様々な支援を受けられるシステムになっています。
そもそも共同親権の議論は、米国で1970年代に起きた「離婚後も子育てに参加したい」と願うお父さんたちの権利運動がきっかけでした。その後「子どもの権利」意識の浸透とともに、英、米、仏、独などで導入されました。
オーストラリアでは、養育時間も半分半分という大胆な法改正もありました。結果はDVや虐待被害が顕在化し、2011年には揺り戻しの法改正もあった。だから、共同親権は、導入すれば子が幸せな状況に近づくという魔法の制度ではありません。
各国は「子の権利」を軸に試行錯誤を重ねています。父とも母ともできるだけ関わりを持って育つ方が、子どもの育ちにとっては良い。離婚後も関わって「共同親権」で育てることができる人たちにはその選択肢を与え、子どもの権利を守るという軸はぶれていない。日本もそうあるべきだと思います。
諸外国は裁判所が離婚を判断し、許可します。夫婦で共同親権の協議ができるケース、協議ができずに調停が必要なケース、争いが深刻で裁判で決めなければならないケースの三つに仕分けをしています。私は、日本では、自治体にその機能を持たせるのがより現実的な選択だと思います。調停や裁判まで持ち込まれる場合には、専門家が関わる。そこで子どもの意見を客観的にくみ取る仕組みを整備することも大切です。
■責任の所在明確に 弁護士・長谷川京子さん
子育ては、成長する子どもの途切れないニーズに、特定の大人が生活を共にし、応える営みです。いまの法律は、この責任を果たせる人を「親権者」と定め、子どものための権限を託しています。責任を持つ人が権限を行使してこそ、適正な親権行使ができると思います。
共同親権を導入すると、子育ての責任を負わない別居親に、1人でその責任を果たしている同居親と同じ権限を与えることになります。もし、別居親が同居親の子育て方針に反対を乱発したら、子育ては行き詰まり、子どもの福祉を損ねます。対立するたびに裁判所の判断を仰ぐなら、生活と子育てを1人で担う同居親の負担は、時間、金銭、心理的ストレスの面で途方もなく大きくなります。それは経済的、社会的、時間的に追い詰められがちなひとり親から、子育てに必要なゆとりを奪います。そういう影響は司法の体制改善などで乗り越えられるものではありません。
父母の争いが激しかったり、DVや虐待があったりした家庭では、子どもの知的・心理的発達が害されることが研究で知られています。共同親権のもと、別居親と同居親が子育てで対立すれば、親権行使は新たな争いの舞台になり、子どもは巻き込まれ続けます。
また併せて語られることもある共同養育では、別居する父母の間を子どもが行き来して生活することになります。子どもは、父母どちらの家でも根を張ることができません。乳幼児なら愛着形成が阻害される懸念も生じます。そのうえ、双方の親が子どもと暮らす建前なので、収入の少ない親に支払う養育費は減額されます。養育費をもっと減らしたい親からの養育時間の拡大要求が激しくなり、裁判紛争が増えます。
離婚後も夫婦で話し合える人たちは、親権制度にかかわらず子育てに協力している。親権をめぐる法律は、それができない人の間で、子どもの安全や福祉を守るための制度です。共同親権・養育制度は、DV虐待や際限ない紛争からの、親子の逃げ道を絶つ仕組みになってしまう。養育費を減らし貧困の解消にも逆行する。紛争の現実を見ないで親権の共同化に進むのは危険です。
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父親も母親も「子どもは絶対に自分と暮らした方が幸せだ」という結論ありきで、エゴを感じることが多いです。子どもは、子どもなりの意見を持っています。
大人が子どもの意思を聞く時に大切なことは、子どもが、より多くの視点から考えをまとめているか、いっときの思いだけで決めていないかについて気を配ることです。
5歳の子でも、「父か母かどっち?」という選択肢だけでなく、「本当は別々には暮らしたくない」という選択も入れてまず聞いてみます。選択によるメリットやデメリットも易しく説明すると、子どもは迷いをみせます。その気持ちの揺れを受け止めながら、子どものテンポで接し続ければ、「本当の気持ちはどっちにも言ってないよ」と、本音を話し始めてくれることがあります。
医療の現場では、16歳未満の子どもの最終的な治療方針は親が決めます。「子どもは導くべき存在で、親なら最善の選択ができる」という考えが多くの人にはあります。そこから離れ、子どもの立場に立った仕組み、発想に変われるか。司法も含め、様々な分野で取り組むべきことだと思います。
大人は、自分の感情やエゴを一度横に置き、真摯(しんし)に子どもたちの声に耳を傾けて欲しいです。
■養育費巡る法整備を求める声
各国の養育費制度を紹介したところ、法整備を求める意見が届きました。広島の女性(47)は「夫が送金マシンと感じることがある」と言います。前妻との子どもに十数年間、多い時で年収の約3分の1を払ったが、一度も会えず、数年に1度メールで1、2行の報告があるだけ。「離婚が増えているのに現状に適した税制がない」として、所得控除といった税制面の優遇措置を設けるなど、養育費の支払い促進につなげる政策が必要だと指摘しています。
神奈川の男性(64)は「日本の算定表は額に幅があり、物価や給与などの変化が10年以上反映されていない」と、ドイツのように養育費の額を省令で定めるよう提案します。
面会交流との関連について、札幌市子どもの権利条例市民会議の佐々木一代表は「養育費と必ずしもセットではない」。払っていて面会できないなら、その背景の吟味が必要で、「養育費は親の義務だが、面会交流は子どもの権利。子どもの最善の利益を考えるべきだ」と言います。
<養育費の額どう決まる?> 日本では法律や省令の定めはなく、目安として使われているのが養育費算定表です=図。東京と大阪の裁判官らによる研究会が2003年に発表しました。それぞれの親の年収が交差する部分が支払額の目安。最終額は当事者の合意で決めます。
米国の親権に詳しい京都産業大の山口亮子教授(家族法)によると、米国では、離婚時に両親が養育計画を作成。養育費、面会交流の頻度、平日と週末の子の養育者、子の受け渡し日時や場所などについて、数年先まで一定のルールを決めます。
親の義務を明確にするため、1975年に強制力のある養育費制度を創設。実務は司法と行政が担っています。額の算定は州ごとに決められ、ネットで無料で計算できます。主な算定方式は図の2種類です。
◇子どもの貧困と親権のありよう。複雑で難しい問題で簡単に答えはでません。私自身は、離婚後に双方の親が共に望む場合は、共同親権も選択できる道を作るのが良いと思います。もちろん、双方の親が真に対等に話せるためには、養育費徴収制度、面会交流支援の充実、DV被害者への支援など、取り組まなくてはならないことが多くあります。子どもの立場に立った制度になるよう、当事者以外ももっと議論に加わり、冷静に模索することが大切だと思います。(山内深紗子)
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政治の悪と人間の心 2016/6/21(火) 午後 4:43
都知事 舛添要一 の公私混同をはじめとする、裕福な都の予算をごまかして使っていた数々の事例をメディアを通して何日も見せられて、都民も他県の人たちも、その悪に向かって意識を共有しているようだが、そこから私たちは何を学ぶのだろうか。
それは私たちもその位置に立って権力を握る立場になるとすれば、同じようなことが容易に起こるのではないか。
政治や権力というものが人を変える・・あるいは自分はこういう人間だと思っていた自分とは違った自分を、人は認識していない・・つまり私たちは自分というものを知っていないようだ。
多くの場合、こうありたいと思う自分を思い描いて、もっと奥に心の底に沈んでいる自分の欲求や不満が隠されて、見えなくなっているのかもしれない。
いつも書いていることだが、政治は政治家の問題ではなく、それを支えている私たちひとりひとりの心にある・・願望・依存・努力・成功・対立・争い・敵対心・・・なのであって、私たちは人間の心―つまり自分の意識・感情・欲望というものを、ありのままに知ることから始めなければならにように思われる。
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この辞任劇で問題なのは、舛添さん個人の辞職で、かえって有権者が誰かに責任をとらせるのが難しくなったことです。
むしろ、舛添さんが都議会を解散していた方が、政党の責任を明確にする機会になったかもしれません。ただ問題なのは、都議会議員の選挙が中選挙区制だということです。小選挙区なら1かゼロかですから、有権者が政党に責任をとらせやすい。でも世田谷区や大田区のように定数8の選挙区だと、有権者数の5%くらいとれば当選してしまうので、政党への批判が選挙結果に直結しにくい。
議員も、政党よりも個人で選ばれたという意識があるので、舛添さんを支持した責任をあまり自覚せず、平気で「辞めるべきだ」と言ってしまいます。
政党の責任があいまいになる原因は、首長と議員を別々に選ぶ二元代表制にもあります。「首長が勝手なことをするのを防ぐため」といわれますが、実際には不毛な対立に陥りがちです。首長と議会が共同で政策に責任を負わないといけないのだから、政党を基盤に有権者から審判を受ける運用にすべきです。
二元代表制をやめて議員から首長を選ぶかたちも考えられますが、二元代表制を維持するのなら、選挙制度を変えるべきです。地方議員も小選挙区制にするのはわかりやすいけれど、全面的に区割りをやり直すのは現実的ではありません。参議院の比例代表部分と同じ、非拘束名簿式の比例代表にすれば、政党として票がまとまるので、政党は民意に敏感になるでしょう。
ただ、政党の責任を大きくすると、国政選挙とリンクしやすくなるのが懸念されます。今回も、自公は参院選への影響を考えたとも報道されています。地方選挙だけでなく、国政選挙も含めて選挙のタイミングを考えるべきだと思います。いままでの選挙制度の議論は、衆議院、参議院、首長、地方議員をバラバラに考えていました。そうではなく、すべてまとめて、選挙制度審議会のようなもので議論していくべきです。
いまの制度では、首長に問題があっても、それを支えてきた議会と政党の責任を明確にする方法がありません。そこを変えないと、新しい都知事になっても何も変わらないでしょう。(聞き手・尾沢智史)
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■「祭り」騒ぎ、報道は反省を 江川紹子さん(ジャーナリスト)
もうげんなりして見たくもありません。テレビや新聞の報道のことです。舛添さんのクビをとることが目的になって「早く辞めよ。この道しかない」と走り始めると止まらない。「祭り」状態です。
騒ぎに乗っかって舛添さんを、ここぞとばかりに正義漢ぶって一斉にたたきまくる。芸能人の不倫報道と同じレベルとしか思えません。そして次の餌食を探しに行くのでしょう。
そもそも「東京」の知事のことを連日、全国津々浦々にトップニュースで伝える、会見も生中継。そんな必要があるのでしょうか。マスメディアの東京中心主義、極まれりです。
もちろん舛添さんの公私混同は批判されて当然です。でも一刻も早く辞めさせなければならない問題なら、なぜ週刊誌が伝える前に大きく報道できなかったんですか。
都庁のなかには記者クラブがあって大手メディアが常駐しています。記者は会見にも出られるし、庁内を歩き回って会いたい人に会え、資料も利用できる。情報にアクセスできるチャンスを最大限いかして取材ができるのです。
それに、舛添さんは知事になる前は国会議員でした。知事にふさわしいのか、その時点から調べることもできたのに、ほとんどノーマークでした。
こういう時だからこそ、舛添都政を冷静に点検し、辞職のメリット、デメリットを解説するようなメディアはないのでしょうか。次は都知事選に誰が出るか、そして参院選と政局報道になるのでしょう。いつもの繰り返しです。
前経済再生担当相の甘利明さんのカネをめぐる問題は、いったいどうなっちゃったんでしょうか。表舞台から引っ込んだら報道しなくなるわけでしょ。表に出て下手な言い訳をする人、偉そうにしてきた人を引きずり下ろす快感もあるのでしょう。
メディアの役割が権力監視というなら、それを果たせなかったのです。反省すべきだと思います。落ち目になった人をたたくのが権力監視というなら、中央の元気な政権の監視なんかおぼつかないです。人々のマスメディアへの信頼がどんどん後退していくでしょう。
もう一つ、都議会はこれまで何をしていたんですか。与党は問題がここまでこじれる前に、「これはまずい」ときちんと知事に申し入れるべきだった。野党は、この問題を掘り起こして追及できなかった。この点も批判されるべきです。果たして議員としてふさわしいのでしょうか。不信任案が可決されて知事が都議会を解散すれば、選挙戦で議員たちは知事の問題で何をやったか、説明せざるを得なくなったでしょう。その機会はなくなりました。(聞き手・桜井泉)
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■人気投票にせず、政策見て 青山やすしさん(元東京都副知事)
そういう状況になってしまった最大の原因は、舛添さんの意識と都民の意識に大きなギャップがあったことです。政治資金の公私混同疑惑に対する舛添さんの言い分は「違法なことはやっていない。ルールにのっとっている」というものでした。
都政の現実とのギャップもありました。よく「都知事の権限は大統領なみ」と言われますが、それは間違いです。大統領のように大勢のスタッフを引き連れて政権を運営できるわけではありません。都職員は競争試験をくぐり抜けて採用された人たちです。知事と議会と職員はそれぞれ独立した存在なのです。舛添さんはそうした都政の仕組みを理解せず、大統領のように何でもできると思っていたのではないでしょうか。
都知事は選挙で数百万の票を集めることが必要です。このためタレントの人気投票と同じようになってしまっています。
米大統領選は1年近くかけてやっています。都知事選も2、3カ月はかけるべきです。そうすれば、メディアは候補者の「身体検査」をできるし、都民も人柄と政策を理解できる。選挙期間を延ばすには公職選挙法を改める必要があり、今回の選挙には間に合いませんが、選挙後はそういう議論をしてもいいと思います。
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英国と選挙と地球の資源 2016/7/2(土) 午前 2:05
経済のグローバル化が進んで、英国のEU離脱問題が世界中に混乱をもたらしている。日本の政治家も、経済成長をあげて国民をあおっているが、競争社会でのそれは結局格差を広げて貧困を増加させることになるのは、現に目に見えている。
そのことが見えないで、いくら「選挙に行きましょう」とさそっても、競争と対立と格差は広がるばかりである。地球の資源は、競争の勝者にばかり与えるのでなく、みんなで分け合うことしか道はないのである。
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民主的な選挙は、政党や個人が争点を掲げて争う。今日ではおおよそ与党系、野党系の政党が争点をめぐって相互に相手を批判しあうのが通例である。争点をめぐる争いは有権者にとって選択を容易にするということであろう。数年前に民主党が政権についたときの選挙はマニフェスト選挙といわれ、きわめて具体的な課題と実現可能なはずの政策手段が提示された。だがこのマニフェスト選挙に勝利した民主党政権の失敗により、さすがにマニフェストはなりをひそめた。しかし、それでも公約をめぐる争いとは民主政治の基本であるという認識は変わらない。
特集:2016参院選
一応はそういってもよい。しかし、ここに実は大きな落とし穴がある。ある問題が争点として提示されると、そもそもそれがどうして争点になるのか、というその前提は見えなくなってしまう。さらには、争点化されない課題は、事実上、無視されてしまう。その上で、ひとたび争点として上程されてしまえば、後は、自己の主張の正当性を訴え、相手方をののしる、という「争い」が先行し、「争点」の「点」のあり方をめぐる論議などどこかへふっとんでしまう。確かにギリシャの昔からいわれたように、民主政治は「言論競技」に陥りやすい。
そして今回の参議院選挙でも私はその感を強くする。
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現在進行形のこの選挙においては、アベノミクスの成否が主要論点のひとつとされている。ひとたびそれが争点になれば、双方とも、ひたすら「言論競技の法則」に従って、自己正当化と相手への批判の応酬になる。与党はアベノミクスの成果を強調し、野党はその失策を訴える。
アベノミクスの評価はいまは別にしておこう。ただそれを別にしても、確かなことは次のことだ。アベノミクスは、長期的な停滞に陥った日本経済の浮上をはかり、世界を覆う経済グローバリズムのなかで日本経済の競争力を回復し、再び成長軌道にのせることが目的だとされる。そして、この点においては野党も決して批判してはいないのである。
野党が唱えるのは、アベノミクスはその目的を達成していない、ということだ。つまり、日本経済の再活性化と成長軌道への復帰という目的が達成されていない、と批判する。所得格差の拡大による弊害が大きい、といっている。ではアベノミクスをやめるとして何があるのか、というと、その代替策はまったく打ち出せない。
一方、与党は、アベノミクスの成果を強調しつつも、それが当初のもくろみを実現できているかというと、まだ「道半ば」だという。つまり、期待通りの成果をあげていないという、にもかかわらず、さらなるアベノミクスの継続を唱えている。
与党、野党ともにまったく手づまりなのである。そして両党派とも、なぜアベノミクスが十分な成果をあげえないのか、という基本的な点を論じようとはしない。いったい、どうしたことであろうか。
根本的な問題は次の点にある。アベノミクスには、デフレを脱却し、グローバル経済のなかで競争力を確保すれば日本経済は成長する、という前提がある。だがこの前提は妥当なのだろうか。「失われた20年」といわれる。もしも「失われた」というなら、なぜそのような事態になったのであろうか。私には、それは小手先の政策論でどうにかなるものではないと思われる。停滞の20年をもたらした根本的な要因は、ひとつは、人口減少・高齢化社会への移行であり、ふたつめは、金融、ITによる急激なグローバル化である。人口減少・高齢化が現実的な事態になれば、当然ながら市場は拡大できない。高齢者への資産の偏在は消費を増加させない。また、グローバル化は企業を新興国との競争にさらすことで、物価とともに労働コストの圧縮をもたらす。つまりデフレ圧力となる。そして、そういう状況下にあって、国際競争力の確保という名目のもと、構造改革という市場競争主義路線を採用したのであった。
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しかし、できることとできないことはあろう。人口減少・高齢化を食い止めることは難しい。グローバリズムもある程度は認めるほかない。おまけに、日本だけではなく、今日、世界中が先行き不安定で不透明な状態に宙づりにされている。英国のEU離脱をみても、米国の次期大統領候補をみても、中国の先行きを見てもそれは明らかで、この重苦しい不確実性が、個人消費も企業投資も伸び悩む理由のひとつとなっている。
とすれば、無理に、成長、成長といわずに、むしろ低成長を前提にする方が現実的であろう。そして私にはそれが悪いことだとは思われない。日本はすでに物的な財や資産という点ではかつてなく豊かな社会になってしまった。「失われた20年」なのではない。低成長へ移行するのは当然のことであろう。そして低成長経済は、過度な競争社会であってはならないし、グローバル経済に国家の命綱を預けるべき経済ではない。それは、従来の成長主義、効率主義、競争主義という価値観からの転換を要するだろう。その価値観こそが本当は争点とすべきことではないのだろうか。
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さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論」など
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選挙とは何なんだろう 2016/7/13(水) 午後 11:03
18歳の若い人たちを加えた選挙が終って、首相の経済政策が国民に認められた・・と、10兆円とかの補正予算を組んで、税金を決まったように公共事業に投じて・・・またまた企業や金持ちに票のお返しをして、貧困層はおいていかれる羽目になるしかないようだ。国民とか、知識人とか、マスコミも含めて、政治も経済も教育までもが、選挙民の票によってゆがめられていく…。
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安倍晋三首相は参院選を受けて「アベノミクスを加速せよとの信認を得た」と語りました。ただ、足もとの景気はぐらつき、政権が進める政策は様々な問題を抱えています。解決に向けて、政策をどう「加速」し、どう「見直す」のか。各分野の専門家に処方箋(しょほうせん)をたずね、シリーズで読み解きます。
アベノミクスを進めた3年余りで、株価と企業の営業利益、税収は大きく伸びました。一方で、物価上昇による影響をのぞく実質GDP(国内総生産)や企業の売上高はほとんど伸びていません。実質賃金指数や実質家計最終消費支出など、賃金や消費の実態を示す経済指標の伸びはマイナスです。
結局、株を持つ人たちは利益を得たが、日本の経済の実態はほとんど変わっていない。これがアベノミクスの本質です。安倍首相は「アベノミクスを加速させる」と言っていますが、実態に大きな変化がないので、時間が経っても賃上げや設備投資などへは波及しません。
今後、大規模な経済対策を実施しても、(公共事業を中心とした)財政支出の拡大で恩恵を受けるのは建設業ぐらいです。(すそ野が広い)製造業や観光業に効果は乏しいでしょう。
そもそも、「デフレから脱却する」「物価上昇率を2%にする」という目標が間違っています。物価上昇や、それによって増える名目GDPではなく、1人あたりの実質GDPを引き上げること、国民1人1人が豊かになることを目指すべきです。
そのためには経済構造を変えなければなりません。日本経済は1990年代の中ごろがピークで、その後、どんどん貧しくなっています。1人当たりの実質GDPは米国との差が広がり、中国との差が縮まりつつあります。
重要なのは新技術を導入するための規制緩和です。
(自宅などに外国人観光客を泊める)民泊も、政府は「規制緩和する」と言っていますが、特区でも6連泊が必要だったり、年間の営業日数を定める動きがあったり、実際には大きな制約をつけています。
■再分配も検討すべき
成長分野で、日本企業の存在感はほとんどなく、世界の大きな変化に対応できていません。企業が新しい分野で活動出来るよう規制改革に取り組むべきだったのに、貴重な3年間を無駄にしてしまいました。経済が良くなるイメージを振りまいて、本来必要な取り組みを怠ってきたのです。
日本銀行はマイナス金利政策で、設備投資を活性化させようとしていますが、機能していません。円安が進んで利益が増え、もうけをため込む内部留保が膨らんでも、企業は設備投資をそれほど増やしていません。新しいビジネスモデルを見つけられず、お金を使いようがないのです。
これ以上マイナス幅を大きくしたら、収益率が低いムダな設備投資を正当化することにしかならず、生産性を低下させます。企業が利益を活用できないというのなら、法人税率を下げるのではなく、逆に引き上げ、増えた分の税収を貧しい人に再分配することを考えるべきです。
将来不安を解消するための社会保障の改革も欠かせません。医療費の自己負担、特に後期高齢者の自己負担率を上げる。財政を立て直して社会保障の将来が描ければ、個人消費も回復してくるでしょう。長期的な社会の構造改革にこそ、取り組まなければなりません。
(聞き手・中村靖三郎、津阪直樹)
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のぐち・ゆきお ファイナンス理論・日本経済論。1964年、大蔵省(現財務省)入省。一橋大教授、東大教授、米スタンフォード大学客員教授などを経て、2011年から現職。著書に「変わった世界 変わらない日本」(講談社)「戦後経済史―私たちはどこで間違えたのか」(東洋経済新報社)など。
<アベノミクス> 2012年末に誕生した第2次安倍政権の経済政策。過去最大の金融緩和で企業や個人にもっとお金を使うよう促し、政府も財政支出を増やして景気を下支えし、経済の安定成長をめざす。円安と株高が進んで大企業を中心に業績は改善し、有効求人倍率は政権発足時の0・83倍からバブル景気時と並ぶ1・36倍まで上がった。
だが、物価高と税金・保険料など公的な負担増に賃上げなどの収入増が追いつかず、個人消費は低迷。2人以上の世帯の消費水準指数は98・7から95・2に悪化した。年明けから一転して円高と株安が進み、停滞感が強まっている。
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国民の目はどこを向いているのか 2016/8/3(水) 午前 0:05
そんな政治家ばかりしか選ぶことのできない国民とは何なのか。
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きょう決定する政府の経済対策をめぐっては規模が大きいか小さいか、効果的かといった点に関心が向いている。だが、もっと大事な論点がある。日本がいよいよ「財政ファイナンス」という禁断の領域に足を踏み入れつつある、そのことの深刻さである。
財政ファイナンスとは、財政赤字を国債ではなく、通貨発行でまかなうこと。中央銀行がお札を刷って国民にばらまくことを「ヘリコプターマネー」と呼ぶが、そんな都合のいい政策には必ず落とし穴やしっぺ返しがあるものだ。いずれ超インフレとなり、国民が困窮することになりかねない。だから世界中の政府や中央銀行は財政ファイナンスを禁じているのだ。
ただ絵に描いたようなヘリマネでなく、なし崩し的にそうなったらどうか。人々は危うさに気づかず一時的な心地よさに酔い、結局そこに安住してしまうのではないか。
先進国最悪の財政の日本がそれほど景気が悪いわけでもないのに、気前よく事業費28兆円の景気対策に乗り出す。すぐに日本銀行総裁が「相乗効果だ」と言って追加緩和で呼応する。目の前で起きているのは、それに近い姿だ。
思い出してもらいたいことがある。第2次安倍政権が誕生した2012年12月の総選挙。安倍晋三氏が遊説で唱えたのは国土強靱(きょうじん)化のためのインフラ整備だった。その財源として「輪転機をぐるぐる回して、無制限にお札を刷る」「建設国債は日銀に全部買ってもらう」とまで言った。
この政策セットがその後しばらく棚上げされたのは、異次元緩和の効果が期待以上と評価されたからだ。ただ最近は限界論や弊害論が出ており、再び財政ファイナンスの出番が巡ってきたのである。
1990年代、政府は公共事業を軸とする経済対策を繰り返した。一時的に景気を浮揚させたが、残されたのは膨大な政府の借金と、「失われた20年」と呼ばれるさえない経済だった。
いまヘリマネを使って財政拡大に乗り出せば、次の調整はおそらく90年代の失敗どころではすまなくなる。
(はらまこと 編集委員)