いままでの記録 [10]
*
この国の人々 2017/6/19(月) 午前 0:30
前回「この国の政治」に引き続いて・・政治は結局は「この国の人々」なのであり、私たちはその立場・地位につけば・・・こんなふうになってしまうのか。
それにしても、米国でも何かおかしな風向きになっているのだが、ただ日本と違って司法が機能している違いがはっきりしている。
:::
加計学園問題 閉会中審査が不可欠だ 朝日(社説) 2017年6月17日
調査結果は「総理のご意向」などの言葉について、「内閣府職員が時として使用する強い口調が反映されたのではないか」としている。
なんとも苦しい釈明である。
前川喜平・前文部科学次官はこの言葉について「圧力を感じなかったといえばウソになる」と証言している。実際に使われていないのに職員がメモに残すような言葉ではあるまい。
メールの信頼性は低いと言いたいのかもしれない。だがメールには「指示は(内閣府の)藤原(豊)審議官曰(いわ)く、官邸の萩生田副長官からあったようです」など具体的な記述がある。
山本氏は記者会見で「課内でいろいろ飛び交っているような話を聞いて、確認しないままにそういうことを書いた」と説明したが、おかしな話だ。
この問題の「決定にかかわって指示したことはない」と言う萩生田氏の名前が、なぜ内閣府内で「飛び交って」いたのか。
事実究明は緒に就いたばかりだ。国会は閉会中でも審議はできる。証人喚問に応じるという前川氏を国会に呼び、直接話を聞くことは欠かせない。
首相は証人喚問について「国会で決めること」との答弁に終始した。だが問われているのは首相自身と、首相側近で、学園系列大学の名誉客員教授を務める萩生田氏の関与の有無だ。
国民が納得できるまで説明を尽くす重い責任があることを、首相は自覚すべきだ。
安倍政権 「議論なき政治」の危機 朝日(社説) 2017年6月18日
通常国会がきょう閉幕する。
150日間の会期を振り返って痛感するのは、民主主義の根幹である国会の議論が空洞化してしまっていることだ。
その責任は、巨大与党に支えられ、「1強」を謳歌(おうか)する安倍首相の慢心にある。
象徴的なのは、国会最終盤の「共謀罪」法案の採決強行だ。
自民、公明の与党は数の力にものを言わせ、委員会審議を打ち切る「中間報告」を繰り出して成立を急いだ。
■「1強」のおごり
1月、通常国会冒頭の施政方針演説で、首相は野党を挑発した。「ただ批判に明け暮れ、国会の中でプラカードを掲げても何も生まれない」
議論相手の野党を攻撃し、あてこする首相の態度は、国会終盤までやまなかった。
首相自ら野党の質問者にヤジを飛ばす。それなのに、野党からヤジられると「私が答弁しようとすると、ヤジで妨害するんですよ」などと繰り返し、審議時間を空費する。
支持率が高ければ説明は不要とでも言いたいのだろうか。
■極まる国会軽視
国会は内閣の下請けや追認のためにあるのではない。
内閣をチェックし、行き過ぎを正すことこそ国会、とりわけ野党の重要な責務である。
首相をはじめ行政府には、野党の国会質問に誠実に答える義務があるのだ。
深刻なのは、首相も閣僚も、そして多くの官僚たちも、そのことを理解していないように見えることだ。
不都合な質問は、国会で何度問われてもまともに答えない。質問と直接関係のない話を延々と続けて追及をかわす。そんな首相の答弁が連日のように繰り返される。野党議員の背後に、多くの国民がいることが目に入らないかのように。
「あるもの」を「ない」と言いくるめる場面も続いた。
菅官房長官が「怪文書」と断じた加計学園にからむ「総理のご意向」文書は、後に存在を認めざるを得なくなった。防衛省が廃棄したとした南スーダン国連平和維持活動の日報も、その後存在が判明した。そして、財務省は森友学園との交渉記録を廃棄したと言い続けた。
公文書管理や情報公開など民主主義を支えるルールも、政権にとって都合が悪ければ無視していいということなのか。
政権の意に沿わない人物には牙をむき出しにする。
圧倒的な権力を握る内閣の要が、反論の場が限られる一個人を、これほどまでにおとしめることが許されるのか。
■数の力で改憲か
海外からの指摘にも聞く耳をもたないようだ。
共謀罪法案について、国連特別報告者からプライバシーや表現の自由の制約を懸念する公開書簡が届くと猛反発。首相自ら国会で「著しくバランスを欠き、客観的である専門家のふるまいとは言いがたい」と報告者個人を非難した。
3月の自民党大会で、党総裁任期を連続3期9年に延長する党則改正が承認された。安倍首相は来年9月の総裁選で3選されれば、2021年まで政権を握ることが可能となった。
だが国会で野党議員に意図を問われると「読売新聞に書いてある。ぜひ熟読して」。国会軽視、議論軽視はここでも揺るがないということか。
民主主義の基本ルールをわきまえない政権が、数の力を背景に、戦後70年、日本の平和と民主主義を支えてきた憲法の改正に突き進もうとしている。
いま日本政治は危機にある。この国会はそのことを鮮烈に国民に告げている。
*
政治も教育も根はいっしょ 2017/8/4(金) 午後 5:49
以前にも書いたような気もするが、いまの首相の顔がテレビに出てくると、チャンネルを変える習慣がついて・・それでもやめないその顔とむなしい言葉にいつまで付き合わなければならないのか・・・。
政治家もそうだが、結局人は上の方ばかりしか見ていないんだろう・・生まれてから、親に教師に指導者に・・目的・成功を目指して、頑張れをたたきこまれ・・夢をかなえる・・・それが教育というものなんだろう。子どもたちのいじめも、政治の争いも、社会の暴力も、総理大臣のウソも・・みんな根はいっしょなんだ。
:::
(社説)内閣改造 強権と隠蔽の体質正せ 朝日 2017年8月4日
辞任した稲田元防衛相を国会の閉会中審査に出席させようとしない姿勢は、身内に甘く、都合の悪い情報を隠そうとする政権の体質がまったく変わっていない現実を露呈している。
政権の強権姿勢と隠蔽(いんぺい)体質を正せるかどうか。改造内閣が問われるのはそこである。
身内への甘さの裏側にあるのが、自らに批判的な人々を敵視する姿勢だ。東京都議選の最終日、「辞めろ」コールをする聴衆に向かい、首相が「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と声を張り上げたのはその典型である。
首相は記者会見で反省を口にし、頭を下げたが、真意を疑わせる人事だ。
臨時国会では一連の問題について関連文書の調査を尽くし、すべて公開するとともに、関係者に出席を求め、事実を包み隠さず明らかにする必要がある。
自らが深く傷つけた政治全体への信頼を取り戻す一歩を踏み出すことができるか。問われているのは首相自身である。
8月2日(水曜日) 焼け太りは許されない 【身辺雑記 大岡みなみ】
迷走を続けながら、しぶとく生き残っている台風5号の動きが、安倍政権と重なって見える。どちらも一刻も早く消滅するのが「国民益」につながると思うのだが、このまま焼け太りして勢力拡大するような事態になれば、甚大な被害を及ぼすのは必定。国政を私物化し公私混同を続ける安倍政治の罪を、内閣改造でうやむやにさせてはならない。そんなことは断じて許されない。
◇◇
【お笑い安倍改造内閣・組閣人事(案)】稲田朋美・自己防衛相(再)、山本幸三・痴呆創生相(再)、金田勝年・無法相(再)、今井絵理子・少子化対策担当相(新)、豊田真由子・1億総活躍担当相(新)、佐川宣寿・財務相(新)、籠池泰典・国家公安委員長(新)、加計孝太郎・文科相(新)。
7月27日(木曜日) 厚顔無恥で無神経
稲田朋美防衛相が辞任の意向。やましいことが何もないのなら辞任する必要などないではないか。これまで国会や会見の場で説明してきた発言は、すべて虚偽だったということか。そんな稲田防衛相をずーっとずーっとかばい続けてきた安倍首相の責任は、重大なんて言葉では言い尽くせないほど犯罪的だ。
稲田朋美防衛相は辞任でなく罷免すべきだろう。そして当然、総辞職。安倍首相自身が辞めるしかないと思うよ。
◇◇
「これほど事実と向き合わない政権は前代未聞だ」とジェフ・ズッカーCNN社長。事実と異なる虚偽発言やメディア批判を繰り返すトランプ政権についてのコメントだが、安倍政権にもそっくりそのまま当てはまる言葉ではないか。安倍晋三首相を筆頭に、稲田朋美防衛相、山本幸三地方創生相などなど、安倍自民党は嘘つきだらけ。
7月25日(火曜日) 疑惑は深まるばかり
2日間の国会閉会中審査で、確かに安倍首相の態度や口調や言葉遣いは丁寧で低姿勢だったかもしれないが、それは上っ面のポーズに過ぎない。「加計学園の獣医学部新設計画なんか知らない」「指示なんかしてない」「記憶にない」「記録もない」と繰り返すばかりで、しかも聞かれてもいないことを長々と話し続け、おまけに指名されてもいない大臣が勝手に答弁するのでは、真摯で丁寧な説明とはほど遠い。安倍首相や政権側の答弁には説得力も信憑性もまるでなく、むしろ疑惑はますます濃厚になった。
読売新聞は相変わらず「『加計ありき』は決め手を欠いた」などと、ピントのずれた恣意的な世論誘導記事をまき散らしているが、安倍首相らの答弁に納得なんてだれもしないし、疑問や疑念は深まるばかりだろう。あるはずの記録を出さず、それで真摯に説明したなどと思う方がどうかしてる。「加計ありき」は明白だ。問題の本質を糊塗しあえてはぐらかそうとする読売は、もはやジャーナリズムとは全く呼べない。なんなんだ、このゴミみたいな紙切れは。それにしても自民党と公明党と維新の議員の質問は酷かった。まったくもって時間の無駄でしかない。
*
「社会はあなたと私・・私たちひとりひとりの責任」 2017/9/5(火) 午後 2:03
朝日(声)世界の現実に「ごめんなさい」 2017年9月1日
高校生 中村生(いく)(東京都 15)
「こわいねえ」。友達が「北朝鮮情勢緊迫」のニュースを見て言った。しかし、私がこれについて思うのは「ごめんなさい」だ。
「シリアへミサイル発射」「子供が飢餓で死んでいる」「難民増加」。毎日世界では色々なことが起こっている。それらのニュースに対して私は、ミサイルを発射しなくてはならないほどにシリアの情勢が悪化したこと、おなかがすいて死んでいく子どもたちを助けられないこと、難民を作り出している紛争を止められないことに、責任を感じて苦しんでいる。不安定な世界に対して何もできていなくて「ごめんなさい」と思っている。
どこかの大統領でもなく力もないのに責任を感じるとは、なんて偉そうで偽善者なんだと思われるかもしれない。私もそう思う。
それでも、この世に生まれて生きているのだから、この世で起こることに責任を持つのは義務だと思いたい。そして、政治家やその政治家を選ぶ人たち、世界で起こっていることを知ることができる人間が、私と同じ気持ちを感じているのなら、世界は少し変わるかもしれないと思う。
:::
科学技術の発展で生活は便利になっても、私たちの身の周りでも世界にも、社会では欲望と暴力、子どもたちやや女性の貧困・格差が広がっています。
社会は政治家や地位の高い金持ちの人たちに支配され、人々は政治家に期待して自分の生活を改善してくれると思う政治家を選び、選ばれた政治家は自分の票や支持率にとらわれて、社会の片隅でほんとうに困っている人のことは目にはいらないようです。
クリシュナムルティの本から学んだことですが・・「社会はあなたと私の関係です。あなたの私に対する心配りが社会を支え、社会を変えていくのです」
いろいろ問題の多いこの社会を真の意味で支え変えていくのは、政治家でもなく、専門家でも、偉い人でもなく、あなたのように・・
《「この世で起こることに責任」を持つのは・・政治家やその政治家を選ぶ人たち、世界で起こっていることを知ることができる人間が、私と同じ気持ちを感じているのなら、「世界は少し変わる」かもしれないと思う。》
あなたのその他者に対する心づかいは私の心に残って、私が出あう多くの人たちにもその心が伝えられ広がっていくことでしょう。
それは私が学んでいるKという人の本の中のことばから学んでいることです。#####
『 私たちがお互いに考えていることを相手に伝達することは、相手のことを非常に良く知っている場合でも、きわめて難しいことです。同じ言葉でも、「私」と「あなた」は違った意味で使っているかもしれません。理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます。しかもそれは人と人との間に、夫と妻の間に、また親しい友人同士の間に真の愛情があるときにしか生まれません。これが真の人間的共感――親交です。このように即時の理解――直覚は、私たちが、〝同時に、同じレベルで〟出会うときに初めて生じるものなのです。円滑に、有効に、そして明確にお互いの考えを伝えあうことは、とても難しいことなのです。
社会というものは、それ自体として独立して存在するものではありません。社会はあなたと私との関係が生みだしたものなのです。つまり、社会は私たちの内部の心的状態を外部に投影したものにほかならないのです。ですから、「あなた」と「私」がお互いに理解していなければ、単なる外部――内部の投影されたもの――の変換は全く無意味なのです。
あなたの心の中や周囲にある混乱や悲惨は〝ひとりでに〟発生したものではありません。それは「あなた」と「私」が生みだしたものです。資本家や共産主義者や、あるいは独裁主義者が生んだものではなく、「あなた」と「私」の相互の関係によって生みだされたものなのです。つまり、あなたの心の中にあるものが、外部や世界へ投影されているのです。ありのままのあなた自身、あなたの思考や感情、それにあなたが日常生活でやっていることなどが、そのまま外部に投影され、それが〝世界〟になっているのです。
世界は私たちの姿が投影されたものなのですから、世界を理解するためには、私たち自身を理解しなければならないことになるのです。世界は私たちから独立した存在ではなく、私たちが世界そのものなのです。ですから私たちの問題は、そのまま世界の問題と言えるのです。
私たちの精神の働きがあまりに鈍重なので、世界の問題は私たちに関係がないし、そういう問題は国連とか新しい指導者が解決するべきものだと考えてしまうのです。こういう物の考え方をするのは、その人の精神があまりに鈍感だからです。
なぜなら、現在の世界の目を覆うほどの悲惨や混乱や、いつ勃発するか知れない戦争などに対して、私たちは責任があるからです。こういう世界を変革するには、まず、私たち自身のことから出発しなければなりません。
私たちの住む世界がどんなに小さくても、もし私たちが自分自身を変革して、日々の生活の中にこれまでとはまったく違った新しい物の見方を導入することができれば、そのとき、私たちは恐らく世界全体に、また他の人たちとの広範な人間関係に、大きな影響を与えずにはおかないでしょう。
生きるということは、私たちがお互いに関係をもっていることであり、孤立して一人で生きることはできないのです。このように考えてまいりますと、この世界に対立や悲惨や闘争が起こるのは私たちが正しい人間関係を欠いているためであるということがわかります。
私たちの住む世界が、たとえどんなに小さなものであっても、私たちがその窮屈な世界の中でお互いの人間関係を変えることができるなら、この新しく生まれた人間関係は、ちょうど波が波紋を描くように、絶えず外へ外へと広がっていくことでしょう。そして私たちの人間関係の中に、表面的なものではなく、根本的な変換を引き起こすことができれば、私たちは世界を積極的に変え始めることになると思います。』(K)
いままでの記録 ここまで
:::::::